明暦野田本「鍾馗」

16-828 鍾馗

{ワキ詞}〽︎是は,もろこし終南山の麓に住居する者にて候。扨も我奏聞申すべき事の候間。唯今帝都に赴候。
{上哥}《終南山を立出て。〃。野草の露を分け,ゆけば。遠村に煙みち人屋しるき眺望の。海路はるかに,すぐれば釣の小舟も,かへる浪。よる程もなき,ながめかな。〃》
{シテ詞}〽︎なふ〃あれ成旅人に尋ね申べき事の候。
{ワキ詞}〽︎何事にて候ふぞ。
{シテ}〽︎我むかし誓願の子細あるにより。悪鬼を,ほろぼし国土を守らんとの誓ひあり。君賢人をなし給は〃。宮中に現じ奇瑞をなすべきと。此事を奏してたび給へ。
{ワキ}〽︎これは不思議の御事かな。偖〃御身は如何成人ぞ。
{シテ}〽︎今は何をか,つ〃むべき。我は鍾馗といへる進士なるが。及第のみぎんに亡ぜし。其執心を翻し。後世に猶のぞみあり。
{ワキ}〽︎実〃鍾馗の御事は。世に隠れなき進士なるが。其亡心にて御座か。
{シテ}〽︎《中〃也とゆふぐれの》
{ワキ上カ〃ル}〽︎《物冷しき》
{シテ}〽︎《折からに》
{上哥}《草虫露に声しをれ。〃。尋ぬるにかたちなく。老松既に風絶て,とへども松は答へず。実や何事も。思ひ絶なむ色も香も。終には,そはぬ花紅葉いつをいつとか定めむいつをいつと,さだめむ。》
{クセ}《一生は風の前の雲。夢の間に散じ易く三界は水の上の淡光りの前に消んとす。綺綱殿の内には,うちには有為の悲しびを,つげ。翡翠の帳の,うちには有漏の願力有とかや。栄花はこれ春の花。昨日は盛んなれども。けふは衰ふ宛力の。秋の光り。朝に増じ。ゆふべに減すとか。春さり秋来つて。花散じ葉おつ時移り,けしき変じて。楽み既に去て。悲しび早く来れり》
{上シテ}〽︎槿の。花の上なる露よりも。
{詞}はかなき物は蜻蛉の。あるかなきかの,こ〃ちして。世を秋風の,うち靡き。群ゐる田鶴の,ねを鳴て四手の田長の一声も。たがよみぢをか知すらん。哀なりける人界をいつかは離れはつべき》
{ワキ詞}〽︎是は,ふしぎの御事哉いそぎ帝都に赴つ〃。委く奏聞申すべし。暫く,またせ給へとよ。
{シテ詞}〽︎迚見〃えし夢の中。誠の姿を顕さんと
{上カ〃ル}《云より,はやく。けしきかはりて。
{上同}《伝聞仏在世の。〃。浄蔵浄眼の,ごとくに。その高さ七多羅樹。虚空にあがりては座せしめ。地に入ては火焔を,はなして。水を,ふむ事陸地の,ごとくに。さら〃と走さつて。かたちはさながら山彦の。形はさながら山ひこの。声ばかりして失にけり〃》
{ワキ上哥}〽︎《苔のむしろに法をのべ。〃。さも凄じき山陰の。嵐と共に声たて〃。此妙経を。読誦する〃。》
{後シテ上}〽︎《鬼神に横道なしといふに。なんぞみだりに,さはがしく。汝しらずや,わが心。国土を守るちかひあり》
{上地}〽︎《宝剣光り凄じく。日月影をろそかに。松嵐梢を,はらふが,ごとく。悪鬼の乱れ恐れ去て。実にも鍾馗の精霊たり》
{上ロンギ地}〽︎《有がたの御事や。そも君道を守らんの。その誓願の御ちかひ。いかなる謂なるらん》
{シテ上}〽︎《鍾馗及第の。鍾馗及第のみぎんにて。我と亡ぜし悪心を。翻す一念発起菩提心なるべし》
{上地}〽︎《実誠ある誓ひとて。国土をしづめ分てげに》
{シテ上}〽︎《禁裏雲井の楼閣の》
{上地}〽︎《こ〃やかしこに遍満し》
{シテ上}〽︎《あるひは玉殿》
{上地}〽︎《廊下の,した》
{シテ下}《御階の,もと迄も。〃。つるぎをひそめて忍び〃に。もとむれば案の,ごとく。鬼神は通力うせ。あらはれ出づれば忽に。づだ〃に切り放して。まのあたりなる。その,いきほひた〃此つるぎの威光となつて。天に,か〃やき地に,あまねく。治る国土となる事おさまる国土と成事も。げに,ありがたき誓ひかな。〃》