明暦野田本「車僧」

18-920 くるま僧

{次第僧}《後の世かけて車僧。〃,とこよの眠いつまで》
{上歌}《降曇る。そらは小倉の嶺の雪。〃。ちるや嵯峨野の嵐山。瀧の,ひ〃きも声そへて。重なる雲の大井川。いかだの床の,うき枕かたしく袖も白妙の。空も程なくめぐる日の。西山本に着にけり〃》
{詞}暫此所に車を立て。四方の景色を詠うずるに候。
{シテ}〽︎如何に車僧
{ワキ}〽︎何事ぞ。
{シテ}〽︎うきよをば。
{ワキ}〽︎浮世をば。
{シテ下}〽︎うき世をば。何とか,めぐる車僧。まだ,わのうちにありとこそ,みれ》
{ワキ下}〽︎うき世をば廻らぬ物を車僧。乗も,うるべきわがあらばこそ。
{シテ詞}〽︎乗も,うるべきわがあらばこそと,いふは,たそ
{ワキ}〽︎くうたう風涼し。
{シテ}〽︎わが名のみ高雄の山にいひ立る。
{ワキ}〽︎人は,あたごの,みねにすむな。
{シテ}〽︎偖お僧の,すみかは。
{ワキ}〽︎一所不住。
{シテ}〽︎車は,いかに。
{ワキ}〽︎火宅の出車。
{シテ}〽︎めぐれど
{ワキ}〽︎めぐらず。
{シテ}をせど。
{ワキ}〽︎をされず。
{シテ}〽︎ひくも
{ワキ}〽︎ひかれぬ
{シテ}〽︎《車僧の》
{上同}《三界無安猶如火宅をば。出たる三の。車僧かな。めぐるも,すぐなる道なりけりあふ乗得たり、〃》
{引付テモウヤ}《見きく人。心空なる雲水の。〃。ふかだつ空も冷まじく。嵐の声〃に愛宕山。嶺どよむ迄ひ〃き,あひて。車路はなけれども。わが,すむ,かたは,あたご山。太郎坊が庵室に。御入あれや車僧と。よばはりて夕山の黒雲に乗て,あがりけり〃》
{後シテサシ}《あたご山しきみが,はらに雪積り。花つむ人の跡だにもなし》
{詞}《実雪中に山路なし。扨車輪はいかに車僧。我程貴き者あらじと。》慢心の心路あとなからんや。《然らば》無着法欲心に。引か移るか車僧。《魔道にも心をのせよ車僧》
{上地}〽︎《善悪二つは両輪の,ごとし》
{シテ}〽︎仏法あれば世法あり》
{上地}〽︎《煩悩あれば菩提,有》
{シテ}〽︎ほとけあれば衆生もあり》
{地}〽︎《車僧あれば》
{シテ下}〽︎《太郎坊の行者も,有》
{上同}〽︎《祈らば》
{シテ}《祈るべし》
{詞}〽︎《行ぜば》
{シテ}〽︎《行徳も》
{上同}《おとるまじとよ〃いざ車僧行くらべべせん》
{ワキ詞}〽︎いかに汝さまたぐるとも。それには,よらじ,あらそはじ。我はもとより不増不滅。あら面白の時節やな》
{シテ}〽︎実面しろき時節ならば。雪中の車を,めぐらし。さがの〃原にいざ遊ばん。
{ワキ}〽︎あそば〃遊べいとゆふの。我心をば,ひかれめや。
{シテ}〽︎などかはひかで有べきと。しもつを持て車をうつ
{ワキ}〽︎あふ車を,うたば行くべきか。牛をうたば行べしや。
{シテ}〽︎げに〃車は,こ〃ろなし。扨うしを,うたむもあらばこそ。
{ワキ}〽︎愚や汝仁牛の道。見えたる,うしをばなど,うたぬ。
{シテ}〽︎みえたる牛とは扨いかにそも仁牛は。
{ワキ}〽︎うつとも,ゆかじ。
{シテ}〽︎さてお僧の,うたば行くべきか。
{ワキ}〽︎中〃の事。いで〃さらば露地の白牛を,うつて見せむと。《払子を,あげて虚空を,うてば》
{上同}《不思議やな此くるまの。〃。ゆるぎ廻りて今迄は。足よは車と,みえつるが。牛もなく人も,ひかぬにやす〃と,やり懸てとぶ。車とぞ成にける》
{上ロンギ}《小車の山の,かげ野の道すがら。法の道の,へ遊行して。貴賎の利益なすとかや》
{上シテ}〽︎《所から爰ハ浮世の,さがなれや。雪の,ふるみち跡,ふかき。車の,わだちは,あし引の。大雪にはよも,ゆかじ》
{上地}〽︎実雪山の道なりと。法の車路たいらかに》
{シテ}〽︎ゆくか,ゆかぬか此原の》
{地}〽︎《草の,をくるま雨そへて》
{シテ}〽︎《うてども,ゆかず》
{地}〽︎《とむれば,す〃む》
{シテ}〽︎《此車の》
{下同}〽︎《法の力とて。嵯峨小倉大井あらしの。山川を,とび,かけつて。げんまくすれども,さはがばこそ。まことに奇特の車僧かな。あら貴や,おそろしやと。魔障を,やはらげ大天狗は。合掌してこそ失せにけれ。〃》