明暦野田本「泰山府君」

14-675 泰山府君

{ワキカ〃ル}《是は桜町の中納言とは我事也。わが,すける心にあくがれて。青陽の春の朝には。花山に入つて日を暮し。あきは立田の,紅葉ばの。色に,そみ香にめでて。情を四方にめぐらせば。こ〃ろに,もる〃,かたもなし》されども妙なる花盛。三春にだたらずして。唯一七日の間なり。余りに名残惜く候へば。泰山府君の祭を,とりをこなひ。花の命を延ばやと存候。
{上カ〃ル}《有難や,おさまる御代の,ならひとて。何か望みは,ありそ海の。浜の真砂の数〃に。事を,つすや栄花の家》
{上哥詞}《はなの命をのこさんと。〃。是も手向と夕花の。しらゆふかけて火桜のかげあきらかに春の夜の。月の光も曇らじな。金銀珠玉色〃の。花のまつりを急ぐなり、〃》
{シテ女一声}《はなにおり,たつ,しら雲の。嵐や,そらに。帰るらん》
{サシ}《天つ風雲の通路ふきとぢよ。乙女の姿しばしだに。と〃めかねたる春の夜の。色香うへなき花盛。よそめの色もおもしろや》
{上同}《いざ桜,我も,ちりなん一さかり〃。誘ふ,あらしも心して松に残る,うす雪の。さかりとも,ゆふくれの。月もおちくる天の原。霞の衣きて,みれば。妙なる花の。気色かな。〃》
{詞}あら面白の花盛や。一枝手折天上へ帰らばやと思ひ候。
{シテカ〃ル}〽︎《花枝眼に入て春あひえず。花一枝を手おらんと。忍び〃に立よれば》
{ワキ}〽︎《春夜一時あたひ千金。花に清香月に影。みる,め隙なき花守の。皷をかぞへ住居たり。
{シテ}〽︎《折らばやの花一枝に人しれぬ。わが通路の関守は。よひ〃ごとにうちも,ねよ》
{ワキ}〽︎《ねられん物か下枕。はなより外は夢もなし》
{シテ}〽︎《実に〃みれば木の下に。人を,よせじと花の,かき》
{ワキ}〽︎《へだてぬ月の影,共に》
{シテ}〽︎《花の光の》
{ワキ}〽︎《照そひて》
{上哥詞}《中〃木蔭はくらからねば。何と,たおらん花心。月の夜さくらの影。あさまなり恥かしや》
{上ロンギ地}《実に有難や此春の。〃。花の,まつりの時,すぎば。今すこし社松の,かぜ終には,はなの跡とはん》
{上シテ}〽︎《いまたおらずは一えだの。後の七日を松の風。雪に成行はなならば跡とふとても,よしなし》
{上地}〽︎《よしや吉野の山桜。千本の花の桜町》
{シテ}〽︎《月も折しも春の夜の》
{上地}〽︎《霞の光》
{シテ}〽︎《花の陰》
{上詞}〽︎《何か,こよひの思ひ出ならぬ去ながら。あはれ一えだを花の袖に手折て。月をも共に,ながめばやの望みは,のこれり此春の望のこれり》
{シテ詞}〽︎うれしやな月も入て候。去ながら。手折べき便なれば徒にふくる夜の間を待つるに》
{上同}《うれしや月も入たりや、〃。今はうへこそ花さかり。木の下やみに忍び,より。さしも,たへなる花のえだ手折て,ゆくや乙女子が。天つ,はごろも立かさね。天津宮にぞ帰りけり。〃》
{後シテ出端}〽︎《抑是は。五道の冥官。泰山府君なり》
{詞}われ人間の定相を守り命安二つを守護する処に。上古にも,きかざりし。
{詞}花の命を,のべん,ため我を祭る。唯色にそむひと,はな心とは思へども。よく〃思へば道理〃〃。煙霞跡を埋んでは花の暮を,おしみ。さこくまさに身をすて〃。後の春を,またず。か〃る,ためしもある花を。たおれる,ものは何者ぞと通力を以てかく見るに。欲界色界無色界。化天夜まてんにてもなきが。らくてん,げてんの天人がこのはなをおつたよ。》
{上地}《山河草木震動して。虚空に光り,みち,みてり》
{シテ}〽︎《天上きよしと見る処に。なんぞ偸盗の雲の上》
{上地}〽︎《天つ乙女の羽衣の。花のかつらの春をまて》
{上同}《またじはや〃。花一ときの栄花の桜》
{シテ}〽︎《かざしの,はなのたま〃なるに》
{上地}〽︎《花実の種も中空の。天つみそらは雲晴て。らくてん,げてんはあらはれたり》
{上同}天女はふた〃び,あまくだり。〃。さしも心に,かけし花の。葛もしぼむ涙の雨より,ちりくる花を,したひ,ゆけば》
{シテ}〽︎《天上にてこそ栄花の桜》
{上同}《散きて何がのこりの雪の。きえばや花も命の定梵釈十王閻魔宮。五道の冥官泰山府君の力を種の,つぎきの桜。あつぱれきとくの花盛》
{シテ下}〽︎《通力自在の遍満なれば》
{下同}《〃。花の命は七日なれども本より鬼神に横道あらんや。花の梢に飛かけつて。嵐を,ふせぎ雨を,もらさず四方に,ふさがる花の命。七日に限る桜の盛。三七日まで残りけり》