明暦野田本「春栄」
09-447 春栄
{ワキ詞}〽︎是は鎌倉の御内に高橋の権頭家次にて候。扨も此度宇治橋の合戦に味方うち勝。分捕高名数を盡す。某か手にも囚人あまた候中にも春栄殿と申おさなき人を生捕り申て候。此よしを申上て候へは。近き程にちうし申せとの仰出されて候間。此由春栄殿に申さはやと存候。
{次第}《ちらぬ先にと尋ねゆく。〃。花をや風のさそふ覧》
{シテ詞}〽︎是は武蔵國の住人に。増尾の太郎種直にて候。扨もうち橋の合戦にをひて弓手の肩を射させ。其矢をぬかむとすこし傍に曳退き候間に。弟にて候春栄深入しやみ〃と生とられて候。承り候へは。生捕何れもちかき程に誅せらる〃よし申候間。それかしも囚人の数に入はやと思ひ。唯今春栄かありかへと急候
{道行上}《すみ馴し都の空は雲ゐにて。〃。あさ立そふる旅衣日もかさなりて行ほとに。名にのみ聞し伊豆のこう。三嶋の里に着にけり〃》
{シテ詞}急候程に。伊豆の三島に着て候。此所にて囚人奉行を高橋とやらん申候。尋て對面仕度よしを申候へ
{トモ}〽︎畏て候。如何に案内申候。囚人奉行高橋殿と申は何處に御座候そ
{ヲカシ}〽︎何の御用にて候そ頼たる人の事にて候
{トモ}〽︎是は春栄殿のゆかりの者にて候。高橋殿へそと御目に懸りたき事の候ひて是迄参りて候。其よしをよく〃御心得有て御申し候へ
{ヲカシ}心得申候囚人のゆかりの人はかたく禁制にて候へとも春栄殿の御事は頼候人別して痛はり申され候間其よしを申て見候へし暫御待候へ
{トモ}〽︎心得申候
{ヲカシ}いかに申候春栄との〃ゆかりと申てわかき男の来り候ひて御目に懸りたき由申候間堅く御禁制にて候へとも春栄殿の御事にて候間申入てみうする由申て候
{ワキ}〽︎なにと春栄殿のゆかりの人にて有か。某に對面有度よし申か。汝か存知のことく。囚人のゆかりに對面は禁制にて候へとも春榮殿の御事は別していたはり申候間。そと對面申さうするにて候。去なから大法の事にて候間たち刀を預り候へ
{ヲカシ}畏て候いかに申候只今の通りを申て候へはかたく禁制にて候へとも。春栄殿のゆかりの事にて候程にそと御目に懸ふすると申され候さらは太刀かたなを給り候へ
{ワキ}〽︎春栄殿のゆかりと仰候はいつくに渡候そ
{シテ}〽︎さむ候これに候
{ワキ}〽︎是は春栄殿の為には何にて渡候そ
{シテ}〽︎是は春栄か兄に。ましおの太郎種直と申者にて候か。今度うち橋の合戦にをひて。春栄と一所に候つるか。弓手の肩を射いさせ其矢をぬかむとすこし傍に引退き候間に。弟にて候春栄深入し生捕れて候ふ間。餘に見捨かたく候ひて是迄参りて候。春栄に引合せられて給り候へ
{ワキ}〽︎委細承候。是迄の御出誠に神妙に候。軈て其由を春栄殿へ申候へし。暫御待候へ
{シテ}〽︎心得申候
{ワキ}〽︎いかに春栄殿へ申候。御身の御舎兄に。ましおの太郎種直と御名乗有て。是迄御出にて候。急て御對面候へ
{春栄}〽︎これは誠しからす候。兄にて候者は。宇治橋の合戦におもておひ。存命不定と社承及候ひつれ
{ワキ}〽︎荒ふしきやまさしく御舎兄と仰候物を。去なから先物のひまよりそと御覧候へ
{春栄}〽︎ふしき成事にて候。譜代召つかひし家人にて候間。急て追帰して給り候へ
{ワキ}〽︎扨は誠に家人にて候か。さあらは軈て追帰し候へし。如何に申候。仰の通りを申て候得は。物の隙より御覧候ひて。兄にてはなし譜代召つかひし家人にて候へは。急き追帰し申せとの御事にて候。何とて聊尓なる事をは承候そ
{シテ}〽︎暫候。先御心を静めて聞召れ候へ。家人の身として兄と名乗。一所にちうせらる〃事の候へきか。いかやうにも御沙汰候ひて。引合せられて給り候へ。某對面して。家人か兄かの勝劣を見せ申候へ
{ワキ}〽︎実に是は尤にて候。さらはそれかしたはかつてよひ出し申候ふへし。その時御袖にすかられて委仰候へ
{シテ}〽︎心得申候。さらは是に待申候へし
{ワキ}〽︎いかに春栄殿に申候。唯今の者をはあら〃と申追返して候。去なからかの彼者の心中餘りに不便に候間。そとうしろ姿をこ覧候へ此方へ渡候へ
{シテ}〽︎如何に春栄。何とて某を家人とは申そ。扨も此度うち橋の合戦に弓手の肩を射させ。其矢をぬかむとて少曳退き候隙に。御身は深入し生捕れたり。其きはのせむとをも見届されは。家人と云事弟なからもはつかしう社候へ。去なから一所に誅せられん為に是迄はる〃来りたるに。何とて左様には申そ
{春栄}〽︎いかに汝は三世のよしみを思ひ。是迄はる〃来りたる心さし。返〃もやさしけれ去なから。汝は故郷に帰り母御に申すへき様は。春栄社誅せられ候へ。逆まなる御とふらひに社預かり候ふへけれと能〃申候へ
{シテ}〽︎猶も家人と申か。深山木のその梢とは見えさりし。桜は花にあらはれにけり。何と家人とくたす共。終には隠れよもあらし
{春栄}《〽︎時をえてはやくもそたつ夏こたち。其木をそれとみるへきか。はやとく帰れとしかりけり》
{シテ詞}〽︎山皆染むる梢にも。松はかはらぬならひそかし
{春栄}《〽︎一千年の色とても。雪にはしはしかくる〃なり》
{シテ詞}〽︎是を物にたとふれは。いんのやうかは父をうち
{春栄}《〽︎しんのかくいは師匠をうつ》
{シテ詞}〽︎今の増尾の春栄は
{春栄}《〽︎現在の兄を家人といふ 》
{シテ詞}〽︎是は逆罪たるへきか
{春栄}《〽︎誠はふかき孝行なり》
{シテ詞}〽︎いやとにかくに命を捨る迄。種直是にて腹きらむ。。や。刀は参らせつ。御易志にかたなを給り候へ
{春栄}《〽︎なふ〃暫こはいかに
{上詞}命をたすけ申さむとて社。家人とは申つれ忠か不忠に成けるかゆるさせ給へ兄御前〃
{上哥}〽︎種直も春栄も。〃。めしうと守護の兵も。たかひの心を思ひやり。実持へきは兄弟也とて共に袂をぬらしけり〃》
{ワキ詞}〽︎言語道断。御兄弟の御心中を感し申。我等も落涙仕りて候。いかに種直に申候。それかし春栄殿を痛はり申事餘の儀にあらす。某子を一人もちて候を。うち橋の合戦にうたせて候か。此春栄殿のおもさし少もたかはす候間。天晴御命もたすかり給ひ候へかし。それかし申うけ一跡をつかせ申度との念願にて候。や。何と申そ。是は誠かあら何ともなや候。唯今申つる事も徒ことにて候。いかに種直に申す。又鎌倉より早うち立て。箱根をこさぬさき囚人を皆ちうし申せと仰出されて候。御最期の御用意をさせ申され候へ。又種直は舊郷へ御帰り候へ
{シテ詞}〽︎暫候。春栄か事は幼き者の事にて候間。春栄をたすけ某を誅して給り候へ
{ワキ}仰は去事にて候得共。春栄殿の御事ははや目録にて御めに懸り候ふ間。中〃成ましく候。種直はいそひて御帰候へ
{シテ}〽︎御意は尤にて候共。ひらに私をもつて。春栄をたすけそれかしをちうして給り候へ
{ワキ}〽︎いや成ましく候
{シテ}〽︎扨は力なき事。是迄はる〃来り候ひて。春栄か最後を見捨帰る事はあるましく候間。某をも春栄と一所に誅して給り候へ
{ワキ}〽︎それはともかくもにて候
{シテ}〽︎如何に春栄。古里へ形見を贈り候へ。いかに小太郎。おことは國に帰り。母御に申へきやうは。春栄か最期の有様餘りに見すて難く候間。もろともに誅せられ。さかさまなる御とふらひに社預り候へけれとよく〃申候へ
{下クトキ}《〽︎是なるまもりは種直か。は〃のかたより給りたる。守り仏の観世音。種直かかたみに御覧候へと能〃申候へ
{春栄}〽︎是なる文は春栄か最後のふみにて候なり。又かたみには烏羽玉の。わか黒髪のすそをきり。さはかり明暮一すちを。千筋となてさせ給ひし髪を。春栄かかたみに参らする
{シテ下}〽︎あらさためなや去にても。我こそ残りて御跡を。とふらふへきにさはなくて。成人の子をは先たて〃
{下詞}〽︎歎き給はん母上の御心のうち思ひやられて痛はしや
{キサミオロシ}
{クリ詞}〽︎実や生としいけるものいつれか父母を悲しまさる。必一世に限るへからす。世〃以て父母の。数〃なり
{サシ}夫十二因縁より二十五有の沈淪。生しては死しし〃ては生し。
{詞}〽︎流転にめくる事生〃の親子。みなもつて誰かまた自他ならん。しかれは羊鹿牛車にのり。火宅のつかひを出すして。煩悩業苦の三つの綱に。繋れ来ぬる。はかなさよ
{ウキヨリ}
{クセ}〽︎夫生死に流轉して人間界に生るれは。八つのくるしひ離れす過去因果経をおもんみよ。殺の報殺の縁。たとへは車輪のことし。われ人を失へは。かれまた我を害す。世〃生涯くるしひの海にうき沈みて。御法の舟橋をわたりもせぬそ悲しき。殊さら此国は。神國と云なから。又は仏法流布の時。教への法もさかむなり。ことに所はあつまかた。佛法東漸にあり。有明の月の。わつかなる人界いそひて来迎の夜念仏声清光に弥陀の國の。す〃しき道ならは唯心の浄土なるへし
{上シテ}〽︎ところを思ふも頼もしや。
{詞}爰は東路の。古郷を去て伊豆のこう。南無や三島の明神。本地大通智勝佛過去塵点のことくにて。黄泉中有の旅の空。長闇冥の巷まても我らをてらし給へと。ふかくそ祈誓申ける雪のふるえの枯てたに二度花や咲ぬらん》
{ハヤウチ}〽︎如何に高橋殿。鎌倉よりの早討なり。暫御待候へとよ
{ワキ詞}〽︎すは又はやうち来れるは。遅しきれとの御使か
{ハヤウチ}〽︎いや若宮の別當の申により。囚人七人の免状なり
{ワキ}〽︎扨春栄殿は
{ハヤウチ}〽︎七人のうち
{ワキ}〽︎あ〃うれし〃先讀ん何〃若宮別當の申により。囚人七人の免状の事。第一番には別當の御弟豊前の前司。第二番には豊後の次郎。第三番には増尾の春栄まる。残りは先〃讀ても無益。
{上カ〃ル}《はや助るそ春栄と
{上詞}太刀の下より引たて〃。
{クル}命たすかる兄弟は。うれしさも中〃に。思はぬほとの心かな。今のこ〃ろは獣の。雲にほえけん心ちして。ち〃の情ありかたき。兄弟のよしみ社誠に哀なりけれ》
{ワキ詞}〽︎いかに種直に申候。已前も申候ことく。春栄殿の御事天晴御命もたすかり給ひ候へかし。申請それかしか一跡をつかせ申たきとの念願にて候間。此上は給り候へ
{シテ詞}〽︎実此上は参らせ候へし
{ワキ詞}〽︎けふは殊更最上吉日にて候間。家に傳はる重代の太刀。春栄殿に奉り。
{上カ〃ル}《重て千秋萬歳の
{上詞}なを悦ひの盃の。影も廻るや朝日かけ。伊豆の三嶋の神風も吹おさむへき代のはしめいく久しさとも限らしや。嘉辰令月とは此時を云そめてたき猶〃めくる盃の。度重なれは春栄も。お杓に立て親と子の。定めをいはふ祝言の。千秋万歳の舞の袖ひるかへしまふとかや
{シテ}〽︎千代にやちよをさ〃れ石の
{上地}〽︎いはふこ〃ろは萬歳楽》
{ワキ詞}〽︎如何に種直。か〃るめてたき折なれは一指御舞候へ
{上地}《〽︎いはふ心は万歳楽
{舞}
{シテワカ}東路の。ち〃ふの山の。松の葉の
{カシラニ付テ}
{上地}〽︎千代のかけそふ若緑かな。
{カシラニツケテ}若緑哉〃
{シテ上}〽︎老木もわかみとり
{下地}〽︎立やわか竹の
{シテ下}〽︎親子の睦ひ
{上詞}又は兄弟かれといひこれと云。いつれも〃むつましく。親子兄弟の栄ふる事も。是孝行を。守り給ふ。三島の宮の。御利生と伏おかみ親子兄弟さもむつましくうちつれて。鎌倉へこそ参りけれ》