明暦野田本「七騎落」
8-371 七騎落
{狂言}〽︎か様に候者は土肥の次郎実平に仕へ申物にて候扨も此度土肥の杉山の合戦に頼朝討まけ給ひ無人に御座候間一先御ひらき有ふするにて候急き御舟の事を申付はやと存候
{次第}《〽︎身は捨小舟うらみても。〃甲斐なきやうき世なるらん》
{頼朝}〽︎是は兵衛佐頼朝とは我が事なり。扨も昨日石橋山の合戦に味方うちまけ。餘に無勢に候ほとに。ひと先安房上総のかたへひらかはや思ひ候。いかに土肥の次郎
{シテ詞}〽︎御前に候
{頼朝}〽︎餘りに味方無勢にある間。一まつ安房上総のかたへひらかうするにて有そ。急てふねの事を申付候へ
{シテ}〽︎畏て候。はやとくより御舟の事を申付て候。急て召れうするにて候
{頼朝}〽︎いかに実平
{シテ}〽︎御前に候
{頼朝}〽︎唯今舩中に供したる人数はいかほと有
{シテ}〽︎さむ候只七騎御座候
{頼朝}〽︎扨は頼朝迄は八騎よな。急度思出したる事有。祖父為義ちんせいへひらきし時も主従八騎。父義朝江州へ落しも主従八騎。思へは不吉の例なり。実平はからひて舩より一人おろし候へ
{シテ}〽︎畏て候。
{上カ〃ル}《実平仰承り。舟のせかひに立あかり。御供の人数を見渡せは。先一番には
{上地}田代殿
{シテ上}〽︎扨二番には
{上地}〽︎しんかいの次郎
{シテ上}〽︎また三番には
{上地}〽︎土屋の三郎
{シテ}〽︎四番は
{上地}〽︎土佐房五番には
{シテ}〽︎実平候六番には
{上地}〽︎同布遠平
{シテ}〽︎とも板には
{ヨシサネ}〽︎よしさねあり
{上詞}〽︎此人〃は君のため。〃。龍門原上の土に屍をはさらす共。おしかるましき命哉。何れをえらひ出さむと。
{クル}さしもの実平思ひかね。赤面したるはかりなり〃》
{頼朝}〽︎如何に実平。なにとて遅はりて有そ急ておろし候へ
{シテ詞}〽︎畏て候。いかに岡崎殿に申候。急て御舟より御おり候へ
{ヨシサネ}〽︎何と某に御舩よりおりよと候や
{シテ}〽︎中〃の事
{ヨシサネ}〽︎暫候。此御供の中に。某一の宿老にて候程に。かひ〃敷御用にも立ましき者と御覧し限つてか様に承候な。其儀におひては御舟よりは下候まし
{シテ}〽︎いや〃左様の儀にてはなく候。とも板に召れて候程に。陸の近さに申候
{ヨシサネ}〽︎いや所詮此舩中に。命ふたつ持た覧する者を御舟よりおろされ候へ
{シテ}是は不思議の事を承候物かな。それ人は生するより死する迄。命をはひとつ社持候へ。二つ持たる謂は候
{ヨシサネ}〽︎さむ候某は昨日迄は命ふたつ持て候を。はや一つの命をは我君に参らせ上て候
{シテ}〽︎扨其謂は候
{ヨシサネ}〽︎其事にて候。昨日石橋山の合戦に。子にして候真田の余一吉定は副将軍を給はり。またのと組て討れぬ。されは親子は一所。一所は二つの命ならすや。見申せは土肥殿こそ親子一所に候へ。こふん残つて遠平をおろすか。遠平を残してこふんおる〃か。親子に一人おり候へ
{シテ}〽︎最にて候。餘の道理に物な仰られ候ひそ。いかに遠平。君よりの御諚にて有そ。急て御ふねよりおり候へ
{トヲヒラ}〽︎何と御舟よりおりよとかや
{シテ}〽︎中〃の事急ており候へ
{トヲヒラ}〽︎遠平幼く候共。君の御大事にた〃ん事誰にか劣候へき。御舟よりはおりましく候
{シテ}〽︎こさかしき事を申物かな。君の御ため父か命にてはなきか。急て御舟よりおり候へ
{トヲヒラ}〽︎いや〃。君の御ため父の命をは背くとも。御舩よりはおりましく候
{シテ}〽︎言語道断の事を申物かな。君の御為父か命をは背くともおりましきと申か。其儀ならは人手には懸けましひそ
{ヨシサネ}〽︎暫。是は君の御門出なるに。誤りたるか実平
{シテ}〽︎何處まてもそれかし誤て候。所詮おりましいと申者をおろさんより。それかし御舟よりおれうするにて候
{トモヒラ}〽︎いかに申候。さらは御舩よりおれうするにて候
{シテ}〽︎何とおれうすると申か。実〃今社某か子にて候へ。あれをみよ敵大勢打出たり。かまへて某か子と名乗て。尋常に討死せよ。名残こそおしけれ。
{上カ〃ル}《かくて我子をおろし置。実平おふねに参りけり
{上地}〽︎ゆ〃しくみゆる実平哉と。互の心を思ひやり。親子の別れ痛はしや
{トヲヒラ}〽︎父のわかれは申に及はす。君を始め参らせて。皆御名残社惜う候へ
{上詞}彼松浦佐よ姫か。〃。もろこし舩をしたひ佗て。なきさにひれ伏し有様も。今遠平かおやと子の。
{下}別れに替らしと。皆涙をそ流しける
{トヲヒラ上}〽︎契り程なきはや舟を。しはしとたにもいひあへす跡を見をくりた〃すめは
{上地}〽︎はや遠さかる浦の浪。立別れゆくあり様を。
{トヲヒラ}〽︎余の人〃は心して
{上地}〽︎憐みあへる
{トヲヒラ}〽︎舟のうちに
{下詞}〽︎実平はひたすらに。弱けを見えしとて。中〃帰りみをきもせて。心つよくも行跡に。敵大勢見えたりすはや遠平はうたる〃とて。頼朝もあはれみ陸を見給へはさすかけに恩愛の契りもた〃今を限りそと思ひ実平は。磯邊にむかひ人しれす。心のま〃ならはあはれ遠平と一所に。討死せはやとあこかれて。
{クル}飛ひたつ計に思ひ子の別そ哀なりける〃
{ワキ一セイ}〽︎弓はり月の西の空。
{クル}行衛定めぬ。舟路哉
{ヲカシ}〽︎沖なる波の音迄も。ときのこゑかやおそろしや
{ワキ詞}〽︎あれにみえたるか御座舟にて候。急て舩を漕候へ 〽︎畏て候
{シテ詞}〽︎いかに申候。あれに兵舩一艘見えて候。先こなたより言葉をかけうするにて候
{ヨシサネ}〽︎然へう候。急て御尋あらふするにて候
{シテ}〽︎いかにあれなる舩はたか召されたる御舟にて候そ
{ワキ}〽︎我もそなたのふなかけを。あやしく思ひやすらふなり。そもたれ人の舟やらん
{シテ}〽︎是社土肥の次郎真平か乗たる舟候よ
{ワキ}〽︎何と土肥殿のお舩と候や
{シテ}〽︎中〃の事。扨其舟はたか断の事にて候物かな。我味方をは忍はて。月日とも頼奉る頼朝には離申す。此上は命有ても何かせ舞。いて〃自害に及はむと。腰の刀に手を懸る
{シテ}〽︎あ〃暫。君は此舟に御座候
{ワキ}〽︎何と君は其御船に御座候とや
{シテ}〽︎中〃の事
{ワキ}〽︎扨何とてか様には承候そ
{シテ}〽︎是は戯事にて候。幸陸近う候程に其舩をよせられ候へ。御舟をもよせて陸にて御對面あらせうするにて候
{ワキ}〽︎意得申候。さらは頓て陸へまいらふするにて候
{シテ}〽︎如何に申候。御前にて候かう御参り候へ
{ワキ}〽︎畏て候。我君を拝奉つて今は安堵仕りて候
{シテ}〽︎実〃尤にて候
{ワキ}〽︎いかに土肥殿に申候
{シテ}〽︎なに事にて候そ
{ワキ}〽︎此御供の中に。何とて御子息遠平は御座候はぬそ
{シテ}〽︎其事にて候。去謂の有て陸に残し置て候
{ワキ}〽︎とくよりかくと申度は候ひつれとも。餘に以前某に心をつさせられ候其御返報に。今迄かくとも申さぬなり。いて土肥殿に引出物申さんと。隠し置たる舩底より。遠平をひつたて見せけれは
{シテ上}《〽︎其時実平あきれつ〃
{上詞}夢か現かこはいかにとて。覚えすいたきつき泣ゐたり。たとへは。
{クル}仙家に入し身の半日のほとにたちかへり。七世の孫にあふ事のたとへも今にしられたり〃》
{シテ詞}〽︎いかに義盛に申候。扨此者をは何として是迄は召連られて候そ
{ワキ}さむ候これまて伴ひ申たる謂を御前にて申あけうするにて候
{シテ}〽︎急て御物語り候へ
{ワキ}〽︎さむ候。昨日石橋山の合戦破れしかは。おほはか手勢君をうち奉らんとて。大勢渚に打出たり。某も一所にうつて出しに。汀を見れは。引かねたる若武者一騎渚にひかへたり。それかし駒かけよせて。みれは御子息遠平なり。急き馬より飛ており。生とる躰にもてなし。ふな底にのせ申。是迄伴ひ申たり。なんほう土肥殿に義盛は忠の者にて候そ
{シテ}〽︎か〃る有難き事社候はね。只今の御物語を聞候て落涙仕りて候を。さそ人〃の不覚のなみたとや思召れ候らん去なから
{下詞}《〽︎うれしなきの涙は。〃。何かつ〃まむ唐衣。日もゆふくれに成ぬれは。月の盃とり〃に
{シテ一セイ}〽︎主従ともに悦ひの
{上地}〽︎心うれしき。酒宴かな》
{ワキ詞}〽︎いかに実平。餘にめてたき折なれは。そと一さし御舞候へ
{シテ詞}〽︎畏て候
{上地}《〽︎こ〃ろ嬉しき。
{クル}酒宴かな
{舞}
{打上}
{上キリ}かくて時日をめくらさす。
{打上}〃。國〃の兵はせ参すれは。ほとなく御勢。二十萬騎になり給ひつ〃。掌にて治め給へる。此君の御代の。めてたきはしめもさねひらた〃しき忠勤の道にいる実平た〃しきちうきんのみちにいるゆみ矢の家こそ久しけれ》