明暦野田本「かね引」

8-406 かね引

{ワキ詞}〽是は江州園城寺の住僧にて候。扨も當寺の鐘餘にちいさく候程に。今日衆會をなし。鐘を大きに鋳させはやと存候　
{ヲカシ}如何に申上候。藤太秀郷の方より當寺へ御状あの御座候　
{ワキ詞}〽何と秀郷のかたより御状あると申か
{ヲカシ}〽さむ候先々御状を御覧候へ　
{ワキ詞}何〃畏て申上候。扨も秀郷はからさるに龍宮に頼れ。変化の百足虫を平け候。其勲功に十種の贈物あり。中にも妙なるはひとつの梵鐘なり。そのこゑたへにして聞人菩提に至るといへり。しかれは此鐘を園城寺へ寄進申へきなり。今夜必す竜宮より来るへし。竜神に法味をなし給はゝ。聊て疑あるへからす。なんほうふしきなる文にて候へとも。先鐘を持参申て社候へ。いまた目に見えさる鐘をか様に申され候事は。天晴聊尓かと存候
{ワキ}〽いや〃秀郷と申に。五常乱れぬ名将なり。構て疑有へからす。
{上カゝル}八歳の竜女は釋尊に　
{上地}寶珠を捧忽に。〃。南方無垢の成道をとなへし例あり。実有かたやたのもしや。是につけてもいやましに。法の力を頼むなり〃
{シテ一セイ}〽我曠劫のむかしより。末法の今にいたる迄。五衰かうかいの海にしつみ。蜑のかる藻にすむ虫の。我からぬらす。袖哉》
{打上}
{ワキ詞}〽不思議やな是に出たる者をみれは。姿は正しく人間なるか五衰三熱の苦ひを。悲しむ聲の聞るそや。如何なる者そ名をなのれ　
{シテ詞}〽さん候是は此海にすむ竜神なるか。鐘を施入のその為に。是迄あらはれ出たるなり
{ワキ}〽ふしきや扨は秀郷の偽らさりし
{シテカゝル}《〽かねことの　
{上地}すゑとをりなは今の世の〃不思議なるへし疑はて待せ給へや
{クリ上地}夫つき鐘といつは。十二因縁を表し。十二律の響あり。夜昼の刻限を告る事。生死迷悟を。示すとかや
{サシ}然るに此鐘は。祇園精舎の北面に掛し鐘なり　
{下詞}玄奘三藏渡天のとき。竜神法楽の其ために。流砂河に沈め給ひしを。守護して今に。至れるなり
{下クセ}去ほとに此海の。龍神に敵をなす。銕の蜈ありしなり。ある時秀郷。勢田の橋を渡りしに。大虵と成てゆきむかひ憑む心のすゑとけて。神通の弓箭もて忽に敵を亡し。秀郷か其名は末代に隠れよもあらし　
{上}〽其時竜神秀郷に。
{詞}数の寶を贈しに。中にも妙なるは此鐘の。法のちからによるゆへ此寺に施入すへきなり。疑はせ給なと。ゆうへの風に声たてゝ。物さはかしき海つらに。行かと見しか沖津浪に。たち隠れうせにけり浪間にかくれ失にけり》　
{ワキ詞}〽不思議や扨は秀郷の。いつはらさりしかねことの。憑もしかりし言葉のすゑ。其契約をたかへしと。法味をなして待居たり　
{一セイ}《待ほとは。くるしき物か郭公　
{上地}〽一聲いそけ暁の空の。風遠近の雲むらたつて。湖の浪も動揺せり
{後上地}〽志賀辛崎の海つらに。
{打上}〃。立くるしら波の。上にうかへる鐘を守護し　
{シテ上}〽遮竭羅竜王顕れ出れは　
{上地}〽無数の小龍無縁の悪竜みなこと〃くうかひ出て。此鐘の綱手に取つきすかりつきひくとそみえしかほとなくよりくるさゝ浪や。三井寺の鐘樓に引上たり。まのあたりなる奇特かな
{打上}　
{シテ下}〽遮竭羅竜王其時に。
{詞}〃。
{上}彼つき鐘の。聲を出して衆生の冥闇を晴さんとて。東方に廻りて鐘をつけは　
{シテ上}〽諸行無常の響を出し　
{上地}〽扨又南方は　
{シテ}〽是生滅法　
{上地}〽西方にむかへは
{シテ}〽生滅々已　
{地}〽北方に廻は　
{シテ}〽寂滅為楽と
{上詞}されは其声心耳をすまし。聞人則菩提に至り。佛法興隆。伽藍繁昌にまあもるへしと。諸竜一座に頭を傾け礼をなせは。夜もしら〃と。明ゆく空に。竜神は眷属を引つれ〃立歸る彼の。さかまく水に。うきしつみ。さかまく水に浮沈んて。また龍宮にそ入にける》