四百番本「切兼曽我」
19-2 切兼曽我
{ワキ詞｝是は鎌倉殿に仕へ申。梶原源太景季にて候。扨も曽我の太郎祐信は。我君御心安き者に思召候処に。伊東入道祐近が孫。一万箱王を養ひ置たる由聞召れ。成人の後頼朝が冦（アタ）敵（カタキ）とも成べき者をと。奇怪の事に思召。某に急ぎ召連て参り。由井の濱にて殺害仕れとの御諚に依て。曽我に罷越候。いかに誰かある{供}〽御前に候
{ワキ｝〽是成が祐信の館にて候。案内申候へ
{供}〽畏て候。いかに案内申候
{シテ｝〽案内とは誰にて渡り候ぞ
{ワキ｝〽鎌倉より梶原が参りたる由申候へ
{シカ〃}
{シテ}〽何梶原殿とはあらめづらしや。人までもなし此方へと申候へ
{シカ〃}
{ワキ}〽さらばかう参候
{シテ｝〽思ひよらざる御出珍しうこそ存候へ。扨只今は何の為御出にて候ぞ
{ワキ｝〽何と申べきやらん。御為ゆゝしき事ならぬ仰蒙りて候。其故は。故伊東殿の孫養育の由君聞召れ。頼朝が末の敵也。急ぎ具して参るべしとの御使を蒙り参じて候
{シテ｝〽仰畏て承候
｛クドキ下}《妻子に縁なきもの。祐信に過たるはよもあらじ。玉くしげ蘭かれ。炊臼（スイキウ）の夢を見しよりも。せめてはうさをも慰む便ぞと思ひ。兄弟を五つと三つの時よりも。母諸共にむかへ取実子のごとくおふしたて。事假初とは思へ共。十一と九つ。年比よりはけなげにも見え候得ば。折を得て君へも申上御家人の数にもまじへ。父が名跡をも継せばやとこそ。兼ては存候ひし。此ごろかゝる仰を蒙るべきとは思ひもよらず候と
{同下}袖を顔に推あつれば。実断りとて景季も涙にむせぶ斗なり
{下曲}実や生とし生るもの。子を悲しまぬものやある。梁の燕野の雉子。子ゆへに身を忘れ。哀猿腸を断悲しび。今目の前に哀也よしやおもへば何事も
{同}報ひのつみの今更に。誰をかさして恨むべき。親子の契り麻衣。袖にあまる涙の身も絶なんとなきしづむ
{ワキ}〽今は時刻もうつる也。はや御出とすゝむれば
{シテ}〽父は兄弟諸共に。是まで成と立出る
{母上}〽母は餘りの悲しさに。日比頼みし観世音。誓ひの舟の梶原よ。君によろしく申て。兄弟を扶けたび給へ
{ワキ}〽流石に我も親心。想像るゝ袖の露。おさへかねたるばかりなり
{母上}〽祖父伊東が悪逆を思食給ふとも。おさなきものゝ罪科を。など御免じなかるべき
{ワキ}〽実道理也梶原が。何とぞ申兄弟の
{同上}〽命ばかりを扶けんと。さもたのもしき言の葉の。露の情を便りにて。泣てとゞまる哀さよ、〃》
{ワキ詞}〽いかに誰かある{供}〽御前に候
{ワキ｝〽兄弟の者共由井の濱へ召連候へ{トモ}〽畏て候
{ワキ｝〽いかに祐信へ申候。扨も某身にかへてもと存。色々詞を尽し候へ共。中々君の御いきどをり深く。殊に工藤祐経の申条有により。由井の濱邊にてとく〃誅し申べき由御諚にて候。今は思召きられ候へ
{シテ}〽曽我を出しより。かく有べきとは存候へども。餘りに母にて候ものの嘆き申候程に。いつばしは梶原殿を頼み申て候。此上は是非なく候。迚の御芳志に。父が手にかけてせめて教養に仕度候
{ワキ｝〽いかやうとも御心にまかせられ候へ
{シテ}〽忝候。いかに兄弟。迚も遁れぬ道芝の。露の命を惜まずして。最期を清くたしなみ候へ
{一万詞}〽をろかの父の仰や候。死せんず命は露ちり程もおしからず候去ながら。
{下}《年比の御恩をも聊報ずる事もなく。空しく三途に帰らんこと。誠に無念に候
{箱王上｝〽なふ兄上我等兄弟が。最期の躰を見物とて。さしもの由井の濱も所せきまで見えて候。いさぎよく父の御手にかゝり。よみぢとやらんにとく参らふずるにて候》
{シテ詞｝〽あゝ申たり兄弟。夫栴檀は二葉よりかうばしとは。お事等が事にて候。
{下}《実や人しれず龍駒（ク）鳳雛（スウ）の思ひをなし。成人の後には。廉（レン）頗李牧（ボク）にも。劣らじものとそだてしに
{同上}只今父が手にかけ。ころさむ事の悲しやと。目もくれ心みだれつゝ。太刀ふりすてゝふしまろび。害してたべと泣ければ
{ワキ}〽太刀取も切兼てや
{同下}涙にむせぶばかりなり》
{ツレ田山詞}〽やあ〃暫く。是々君よりの御免じ状ぞ。聊爾なせそ
{シテ}〽や。こはいかに畠山殿の御出にて候
{畠山｝〽いかに梶原殿。又祐信へ申候。扨も諸国の大名小名。我君の御前にて。各々詞をつくし申されしかども。中々御許しなかりけるに。此畠山。物その数にはあらねども。御前をたちさらず。くびをうたせおはしませと。諸方の軍功忠節を。命にかけて申せしかば。先彼等を重忠に御許しあり。そのゝちいづかたへも御預けあるべきとの御諚にてあると
{シテ}〽こはそも夢か有難や。誠に重忠の御厚恩。いつ忘るべきとも存ぜず候
{畠山｝〽実道理なりいざ去ば。かゝる目出度御恵みの。忝さを悦びの。
{上}《和哥を詠じて兄弟よ。はや一曲とすゝむれば
{兄弟二人上}〽其時兄弟立あがり。君を祝ひの時の和歌
{一セイ}萬代を。松にぞ君をいはひつる
{同上}千とせのかげにすまんとおもへば。万歳楽をぞ。うたひける
{マイアリ}
{上}愁の眉もたちまちに、〃、ひらくる花の。さかづきとり〃゛に。慶賀の礼義たがひに述て是までなりと。いとま申てゆくすゑの。ひろきめぐみの道すぐに。おや子うちつれふるさとに。かへる事こそうれしけれ、〃》