四百番本「信夫」
03-2 信夫
{次第｝《都を出て草枕。〃旅ねの夢をむすばん》
{シテ詞｝かやうに候者は。みちのくにしのぶの太郎しのぶの次郎と申兄弟の者にて候。扨も我訴訟の子細有て兄弟ながら在京仕て候へ共。訴訟もかなはず結句三年御沙汰とゞまる由。国々にふれられ候程に力なく古郷へ罷帰候
{サシ二人｝《げにや思ふ事なくて過なば名にしおふ。都にいづくかまさるべき。我等都に有ながら。此さたのりひにもいまだつかず。ひとひ二日と過ぬれば。三とせはかくてさたはてぬ
{シテ｝〽また此間三とせが程。御さた都にとまるべしと。
{二人｝国々の人にふれ給へば。何をたよりにまつがえの。久敷都にながらふべきと。思ふ心は古郷に。くだる姿の物うさよ。
{下哥｝朱買臣は古郷に錦をきてや帰るらん
{上哥｝今の我等は引かへて。〃麻の衣の一重とて。人めをつゝむ編笠の。おととひつれて行道の。心すごくもあらばあれ。人もかよはぬ道もがな。あまり姿もはづかしや。〃》
{シテ太郎｝〽急候程に。是は越後国直井の津につきて候。未日も高く候へ共。餘りに草臥て候程に。此所にとまらふずるにて候。宿を御取候へ
{ツレ次郎｝〽仰のごとく日はたかく候へ共。此所に御とまりあらふずるにて候。御宿を取てまいらせうずるにて候。いかに此屋の内へ案内申候
{アルジ｝〽誰にてわたり候ぞ
{ツレ｝〽旅人の二人候一夜の宿を御かし候へ
{アルジ｝〽心得申候。おやどを参らせうずるにて候。こたなへ渡り候へ
{ツレ｝〽いかに申候。おやどをとり申て候
{アルジ｝〽御両人ながら奥の間へ御入あらうずるにて候
{シテ｝〽心得申候
{アルジ｝〽是はいづくより何方へおとをりあるおたびうどにて候ぞ
{シテ｝〽さん候是ははるかの奥の者にて候が。さる訴訟の事にて永々在京仕候へ共。訴訟もかなはず候程に。力なく唯今古郷へ罷下候よ
{アルジ｝〽言語道断はる〃゛の御旅と申。旁御いたはしう存候。是よりかち路は御太儀にて候べし。幸明日此所より奥へ下舟の候にめされ候へかし
{シテ｝〽それこそ日本一の事にて候へ。さらば舟にのろふずるにて候
{アルジ｝〽さらば船頭にそのよしを申候べし
{シテ｝〽然るべきやうに頼申にて候 〽心得申候 いかに誰かある〽御前に候
{アルジ｝〽此二人の者をいつものごとく松崎の兵衛殿へうらふずるにて候間。汝つれて渡り候へ
{ヲカシ｝〽畏て候
{アルジ｝〽いかに申候お舟を申付て候やがてめされ候へ
{シテ｝〽さらばのらふずるにて候近比かしこまり存候
{アルジ｝〽めでたう重て御尋あらふずるにて候
{ツレ｝〽荒ふしぎや此舟は殊外沖へ出候よ
{シテ｝〽げに〃是はもと乗て候より沖へ出候は。何といひたる事にてい候ぞ
{ヲカシ｝〽御不審尤にて候。此舟はあの嶋にて荷をつむ舟にて候ほどに。さて沖へ出申候
{シテ｝〽心得て候
{ヲカシ｝〽はや舟がついて候ちと御をり候や
{シテ｝〽いや〃をるゝ迄もなく候。此まゝ舟にて待申さうずるにて候
{ヲカシ｝〽いや〃しばらく此所にて用をべんじ荷をも積候はんるずる間。只御をりあつて御やすみ候へ
{シテ｝〽なふさらば御をり候へ。我等もをりてやすまふずるにて候
{ツレ｝〽心得申候
{ヲカシ｝〽いかに案内申候
{ワキ兵衛｝〽誰にて渡り候ぞ
{ヲカシ｝〽いや某にて候
{ワキ｝〽やあらめづらしや候
{ヲカシ｝〽さん候以前は何とやらん御意にあはぬ者をまいらせて御心もとなう候。只今よき者を参らせ候よし申され候。是に文の候御覧候へ
{ワキ｝〽あら祝着や候。やがて文を見うずるにて候。や。日本一の事にて候。御文には二人有由仰られ候が二人候か
{ヲカシ｝〽中〃の事よき若き者を二人つれて参りて候
{ワキ｝〽扨かの者はいづくに候ぞ
{ヲカシ｝〽御覧候へあれなるわかき者共の事にて候
{ワキ｝〽実々是はすくやかさうなる者共にて候。さらばやがて返事申候。近比畏たるよしを申候へいそひで舟を出候へ
{ヲカシ｝〽心得申候さらば又重て参り候べし
{ツレ｝〽あらふしぎやなふはや舟が出候よ
{シテ｝〽や。言語道断あの舟は何とて出すぞ。某がのらうずる舟にてあるに急ひでもどし候へ
{ツレ｝〽やあ〃其舩もどせとこそ
{ワキ｝〽なふ〃かた〃へ申候。あの舟はもどるまじき舟にて候
{シテ｝〽もどるまじきいはれの候か
{ワキ｝〽あふあの舟は人あき人の舟にて候が。かた〃゛をそれがしにうりて候程に。舟はもどるまじく候。今日よりかた〃゛は某けにんたるべく候そのぶん御心得候へ
{ツレ｝〽何と我等を買取たるといふか
{ワキ｝〽中〃の事かひとめて候
{ツレ｝〽言語道断それ人をうりかふといふは。女わらんべなどの事にてこそ有べけれ。まつさかりなる侍をうりかふとは存外なるいひごとかな。
{ワキ｝〽所にをきて松崎の兵衛を。存外なるといふべき者こそおぼえね。しかとさやうにいふか
{シテ｝〽しばらく候。此者の事はそれがしに御任せ候へ
{ワキ｝〽さらば貴方の心得がよく候ほどに。を（※ママ、さ）しをき候べし
{シテ｝〽中〃の事御意にしたがはふずるにて候いかに次郎殿御身はけなげ人にて御入候物かな。惣じて人の親の申事は少もちがはぬ物にて候。其方はやは御忘れ候。我等はちとも忘れず候。親にて候者今はの時兄弟を近付。何事にても候へ思ひをく事はなけれども。次郎を見るにちと短慮なる者にて候程に。兄一ぞく共に一大事をかくる事も有べし。能々さやうの事を申付よとありしが。唯今思ひ合せて候。よく〃心をしづめてきかれ候へ。縦此しま鬼神のすむ在所なりとも。又其内にこゝろある者あるべし。さやうの者をひたと頼。本国へ押渡り一族若党を引つれ。しや此嶋に何程の事の有べきぞ。をしよせ松崎の兵衛をいけどり。さん〃゛にさいなみ其後誅してこそ。我等が本望たつしたるにては有べきを。いまなまじひの事をしいだし。兄弟ちんじにをよぶと云共。刀をだにもさゝずしてやはその扇計にて思ふ敵はとられ候まじ御心得がちがひ候。只某にまかせられ候へ。
{ツレ｝〽げに〃くはしく承候へば某が違ひて候。ともかくも仰にまかせうずるにて候
{シテ｝〽中〃の事只某に御まかせ候て時節を御待候へ。いかに兵衛殿に申候
{ワキ｝〽何事にて候ぞ
{シテ｝〽只今は弟にて候者何とやらん聞馴ぬことばを承候に付て短慮を申て候。御心にはかけられまじきにて候。今日よりはともかくも兵衛殿の御はからひたるべく候
{ワキ｝〽懇に承候心得申候。我等が藝（ワザ）には朝夕塩をやかせ候間あの山に入て日に三度塩木を御はこび候へ
{シテ｝〽委細承候さりながら。よなる御ことを仰つけられ候へ。塩木などの事はさら〃れうけんもなく候
{ワキ｝〽いや此嶋にてよなる事は更になき在所にて候程に。いそぎ塩木を御とり候へ。御舎兄の事は御心得もよく候ほどに。三度のしほ木を一度も二度も御はこび候へ。御舎弟の御事は器量こつがらも人にすぐれたる御事にて候間。三度の塩木なれども五度も十度も御はこび候へ。此をのともをまいらせ候いそひでお出候へ
{下シテクドキ｝〽《うきにつらさのまさりきて。何となり行身の果ぞや。うらめしかりけるさきの世かな
{ツレ下｝〽三とせ心をつくししに。其かひなくて今ははや。下る旅さへ物うきに
{下シテ｝〽今又人にたばかられうらるゝ事の無念さよ
{下二人｝さしちがへんと思へども
{下哥｝腰にさしたる物とてはあふぎならではあらばこそ
{上哥同｝なげゝどもあはれと人のいはゞこそ。〃くゆれども今はかなはず。なく〃をのをとりあげて山路に入ぞあはれなる〃》
{シテ｝〽なふ〃いかに次郎殿。あら情なや同じ山路にいらば。とものかざしをさせとこそ見えたれ。など草臥たる某をつれて御入候はぬぞ
{ツレ｝〽仰のごとくいにしへ戦場に出し時は。よろひに鎧をかせねしは。物のかずとも思はざりしが。ならはぬわざに身も草臥て候
{シテ｝〽《実やいにしへの君がらんじやはにほふがおもしろふ候ひしが。此薫物は引かへて。にほふがつらふ候。
{ツレ｝〽荒面白の御詞や。それもたき物
{シテ｝〽これも薫物
{一セイ｝おなじ名の。此薫物の何とてか。匂ばかりのかはるらん 〽たき木の道のなにとてか。〃こりてもとまらざるらん
{シテサシ｝〽実やくはほうは人ごとにさだまつて歎くべきにはなけれども
{下二人｝あまりにおとろへはてぬれば。すゝむ涙はせきあへず
{ツレ｝〽あらいたはしやふるさとの母や妻子も我等をば。都にあるとおぼしめし
{下二人｝けふや下る。あすやをとづれあるらんと。さこそはまたせ給ふらんに。人のやつことなりはてゝ。ならはぬ塩木とり〃゛に
{下哥同｝古郷を思ひいでゝ忍ぶ涙はせきあへず
{上哥｝いにしへは弓矢の道をたしなびて。〃よろひならではかたにもおもしとかけぬこの身の。まださかりなる身なれども。おひにくるしき此坂を下る姿の物うさよ〃》
{シテ詞｝いかに次郎殿。あまりにくるしう候ほどに。薪をおろし。是なる木蔭の岩に腰をかけてやすまふずるにて候
{ツレ｝〽承候御やすみ候へ。我等もやすまふずるにて候
{シテ｝〽うきながら又面白き事は面白う候ぞ。御らん候へ此ちけいのなんぼうおもしろふは候はぬか
{ツレ｝〽おほせのごとく面白きちけいどもにて候。あつぱれ是を世がよにて見候はばや
{シテ｝〽あふ此まゝにてありはつべき事にても候はず。只命に御任候へ。なふ次郎殿あまりに面白きちけいにて候程に。いにしへの謡をひとふしうたふて心を慰候べし。其方も御うたひ候へ
{ツレ｝〽是は仰にて候へ共。未かやうの木樵のうたうたひたる事をこそ承候はね
{シテ｝〽いや木樵も哥をうたへばこそ。樵哥牧笛とは申候へ
{ツレ｝〽さて〃樵哥牧笛とは
{シテ｝〽草刈りの笛
{ツレ｝〽木こりの哥
{シテ｝〽《我等も哥をうたふ聲
{ツレ｝〽よ所にも人のきくならば
{シテ｝〽木こりの哥とやなりぬべき
{ツレ｝〽いざやうたはん
{シテ｝〽さらばとて
{上哥｝草刈にあらぬ我身もおり〃は。〃すなとり笛の音もさびし。さて又山路に日をくらし帰らむ事をわするゝ。くるしやしづのをだまき。むかしを今になさばや。〃》
{シテ｝〽あら面白や候。一ツうたひて候へばいにしへの心地して心を慰て候ぞや。あなたにあたつて人聲のあまた聞え候は。いかなる事か候らん御尋候へ
{ツレ｝〽畏て候。なふ〃そなたに人聲のあまた聞え候はいかなる事にて候ぞ。何板橋どのゝ狩に御出と候や。いかに申候尋て候へば。いたはし殿の狩に御出と申候。是は存たる者にて候間。御忍びあらふずるにて候
{シテ｝〽何と板橋殿と候や
{ツレ｝〽さやうに申候
{シテ｝〽実々板橋は存たる者にて候ほどに。笠を着かたはらにしのふで通さうずるにて候
{ツレ｝〽しかるべう候
{一セイ板ハシ｝〽《鹿にのみ。心をいるゝ益雄は。山をも見ずや。こえぬらん》
{シカ〃｝〽いかに申候あれなる草むらを狩候処に。思ひもよらぬ人を見申て候
{板｝〽思ひもよらぬ人とはいかやうなる者ぞ 〽其御事にて候。あの草村の中にしのぶの太郎次郎殿兄弟。さも浅ましき御ありさまにて御座候
{イタ｝〽すぢなき事を申物かな。何とて此所には居申されうずるぞ 〽いや〃しかと御座候〽これはまことか 〽中〃の御事〽是はふしぎなる事を申物哉。人して申さば定て御隠れあらふずる間。それがし直に立越尋申さう。なふ〃御身は。しのぶの太郎次郎殿にては御座なきか。是はそも何と申たる御事にて。此所には御座候ぞ
{シテ｝〽さん候都の訴訟かなはずして下り候処に。運のつくる所は。人あき人の舟に乗。此嶋へ来りかやうの身と成て候よ
{イタ｝〽や。言語道断の次第にて候物哉。去ながらくるしからぬ事にて候。常に人のあるかならひにて候程に。御心にはかけられ間敷候。御目にかゝり候こそ幸にて候へ。まづ某が私宅へ御供申さうずるにて候。御両人ながらこなたへ御座候へ
{シテ｝〽畏て候さらばまいらふずるにて候
{板｝〽いかに誰かある
{トモ｝〽御前に候
{板｝〽御兄弟餘にふしぎ成御躰共にて候間。急ひで烏帽子ひたゝれをきせ申候へ
{トモ｝〽畏て候。いかに御兄弟へ申候。急でゑぼしひたゝれをめされて御出あれとの事にて候
{シテ｝〽畏て候
{イタ｝〽いかに申候。某都にても事の次でに申候ごとく。我等は子をもたぬ者にて候間。今日より御兄弟を養子に定め申候べし。又此刀は某が重代の刀なり。太郎殿へしむじ候。次郞殿へはすこしながき刀を進じ候。先此嶋をふたつに分て御兄弟に進じをき候べし。
{シテ｝〽御懇に承候誠に畏て候
{ツレ｝〽いかに申候此嶋を両人に給候はゞ。松崎の兵衛が在所を。某に下され候へ
{イタ｝〽進じをき候うへはともかくも御はからひにて候
{シテ｝〽それは何の為に。左様には御申候ぞ
{ツレ｝〽いや別の儀にてもなく候。松崎の兵衛が此間あまり情なくあたりて候程に。某が手にかけかうべをはね候べし
{シテ｝〽暫候。能々物を案じて御覧候へ。松崎の兵衛程我等に忠節の者は候まじ。其故は兵衛此所に買とめて候へばこそ。今板橋殿の御目にかゝり候へ。只人は命ぞとよ。命なりけりさよの中山
{上哥同｝《中〃物なの給ひそ。かゝるうきめを見つ塩の。引かへて今は又。親子の契り深緑。立そふ松も色かへぬ。枝をつらねてとり〃゛に猶よろこびを松崎が。あだを恩にてほうぜんと。召出し此上は恨をはるゝうれしさよ
{上同｝実やおもはずも。ひなのながぢにおとろへて。あまのなはたきいさりせんとは。思ひもよらぬ身のはてかな。
{サシ｝〽本よりのうき身ながらもすてやらぬ。
{同｝よを秋の野の藤袴おとゞい共に立出る。身をうき草の根を絶て。いづくとさそひ行水に数かくよりもはかなきハ。思はぬ人をたのみつゝ。当国に買れ。きぬるなり
{クセ｝ならはぬ業をすがのねの。ながき日くらし山に入薪をとりて帰りくる。かのくろぬしはいたづらに。花の陰にやすみしと。かきしも残る哥人の。名にはかはりて花もなき。木の本岩のはざまにて。しばしやすらふ山人の。をののえ朽て帰りしは七世の孫にあふとかや
{上｝〽我等二人は生々の。父と頼し君に今。逢坂山のさねかづら人にしられてかく斗命の内に二度生を替たる嬉しさに。よろこびを夕暮の。月の盃取〃に。手のまひ足のふむ所覚ず落る涙哉
{上シテ｝〽萬代と。うけつたへたる菊の露
{地｝〽積て渕と。成ぬ也
{上キリ地｝〽渕へんじて瀬と成聲。〃なく。砂地やうじて巌の松の。苔のむす迄かはらぬ此君の。久敷すたれる家を起し。しのぶ兄弟世に出したる。人の心の奥深き。情の色こそひさしけれ》