五百番本「神渡」
04-1 神渡
{次第}《恵みも深き湖の。〃。浪に音なき時代かな》、
{ワキ詞}〽抑是は当今に仕へ奉る臣下なり。扨も信濃の国諏訪の湖水の氷の橋。君聞召及ばせ給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り只今信州に下向仕候、
{上道行}《十日の雨塊を動かさず。〃。枝をならさぬ風の音実治れる御代なれや、民の竈も賑ひて。駅路心に任せつゝ。信濃々国に着にけり、〃》、
{詞}急候程に。是ははや諏訪の湖辺に着て候。暫く此辺（ア）りに流憩(リウケイ)し。事の由をも尋ふするにて候、
{一セイ二人}〽《芦原の。内に普き神慮。淳なりける。例かな、
{二句ツレ}〽君々たればたれとても。
{二人}誓ひになどか。逢ざらん、
{サシ}〽往昔を思ひ出雲の昔より。此湖に地をしめて。
{二人上}外には正直の頭を照し。内には慈悲の心に宿る。されば賤き此身まで。あさな夕なの煙も豊に。齢ひも久敷栄行事も。ひとへに当社の。御故なり、
{下歌}袖を連ねて諸共にいざ宮めぐり初めん、
{上歌}有難や、誓ひぞしるき瑞籬の。〃。久敷代々を守らんと。此湖の底清く。神の心にかけまくも。忝なしや兎に角に。願ひも叶ふ。嬉しさよ、〃》、
{ワキ詞}〽いかに是成人に尋申べき事の候、
{シテ詞}〽御姿を見奉れば。此あたりにては見馴申さぬ御事也。焉くよりの御参詣にて候ぞ、
{ワキ}〽是は帝の勅使としてこの湖水の氷の橋。急ぎ見て参れとの宣旨にまかせ。勅使に参詣申て候、
{シテ}〽是は殊更有難や。御覧候へ此湖の。一ト夜の内に氷閉。三ン日と申に神渡りし。貢税運送の道広く、
{上カヽル}《様稀なる御事なり、
{上ワキカヽル}〽実奇特成事どもや。湖上をみれば皎潔として。万鏡を移す氷の面を。ゆきかふ人の数々までも。歩みより渡る其有様。聞しに越て妙なるぞや》、
{ツレ詞}〽又此所に温泉有厳寒の苦しみ堪難ければ。此温泉に身を投じ、
{上カヽル}《玄冬の日を凌ぐなり、
{ワキ}〽実々みれば此山の。麓に当る温泉は。是も神慮の誓ひかや》、
{シテ詞}〽中〃の事、御代万歳の御恵み。
{上カヽル}《厚きしるしの氷といひ、
{ツレ}〽又此出湯も其ごとく。国土豊に民栄へ。神徳ふかき温湯なり。
{二人}夫は水上是は山岫。海陸共に隔なき。威光は四方に。暉くなり、
{ワキ上カヽル}〽扨々和光の影厚き。謂は取分いかなる事ぞ》、
{ツレ詞}〽迚神祇の物語。彼稀人の御為に。
{上カヽル}《委く語りおはしませ》、
{シテ詞}〽あゝ愚なり去ながら。君の為にと聞からに、
{上カヽル}《拙き老か此身までも、
{ツレ上}〽いはれを今ぞ、
{シテ}〽ゆふしでの。
{上歌同}神掛てかはらぬ御代は久方の。〃。天地開け初しより。今人の世に至るまで。猶明らけき神慮。都鄙安全の御恵み。勝有難き誓哉、〃、
{クリ地}抑当社の御謂。其説区々なりといへども。取分弓矢の。守護神たり、
{サシ}〽されば出雲の其昔。父兄の言に随ひ給はず、
{下同}御慮武きがゆへに今此国に地をしめて。国家を守り給ひしに、
{下シテ}〽代々の帝も其徳を。
{下同}感じ給ひて折々の。任官叙爵蘋繁の礼義おはします、
{下クセ}然れば神徳の。誉れは四方に影高く。磐余天皇の御時。異賊退治の御為に。住吉と同敷皇后補佐の臣となり三韓を安く亡して。国土を静め給ひけり。夫よりも国々に。此御神をうやまひて。崇めずといふ事なし。其後に御姿の。明らけき影を移し。不浄を払ひ邪気をのけ。真実慈悲の政事一年の内に事繁し。今神前の御鏡は其御慮の謂なり、
{上シテ}〽然れば湖水の氷面鏡。
{同}品こそ替れ色々の。神変奇特を顕して衆生を扶け給ひけり。仰ぐべし〃や。神徳の誠を。疑ひ給ふ事なかれさもあらばいとゞ納受の。心に叶はざるべきや、などかは信ぜざるべき、
{上ロンギ地}不思義なりとよか程まで。神秘を宣るいぶかしや。其名を名乗給へや、
{ツレ上}〽今は何をか包むべき。誠は我は此神に。仕へ久敷神殿
{上地}今一人の老人は、
{シテ上}〽祭の司預りし、〽御祓の祝部、
{上地}神の頼員今爰に神勅を受て来りつゝ稀人に又あひ竹の。代々の例をひくのみか、舞楽を奏し慰めん。暫く待せ給へと。いふかと見れば薄氷ふみ渡りつゝ失給ふ〃》、
{中入シカ〃}
{ワキ上歌}〽《教の告に任せんと。〃。心にふかく念願し。明がたちかき東雲に神勅をこそ待居たれ、〃、
{太コ}
{後シテ一声上}〽神徳は民の崇に仍て威をまし。蒼生は神の恵に依て運を添ふ。我此宮居に跡を垂。君臣の道を守らんと誓ひの末も明らかなる。氷橋を渡りて来りたり、
{上地}諏訪の海。氷の橋は。千早振。神の渡りて。解るなる、
{下シテ}〽水の隙より頼員の、
{上地ノラズ}数々の。誓ひはおなじ是とても。君の恵み厚氷の、
{シテ上}〽ためしを見する。あらたさよ、
{上地}うたへやうたへうたかたの水も氷も衣手に、
{舞アリ}
{上シテ}〽宮人の。返すや袖の。氷面鏡、
{下地}影明らかに、
{ノル下シテ}〽神の御渡り、
{下地}神の御渡り。悉く終。色々奇異の。思ひを起し。感涙肝に銘じつゝ。渇仰の気色。様々なれば其時妙なる御声にて長生殿に春秋富り。幾年雪は不老門、善哉〃、と感じ給へば虚空に雪の花をふらし、花ふり下つて。神はあがらせ給ひけり》