明暦野田本「須磨源氏」
14-704 須磨源氏
{次第}《八重の塩路の旅の空。〃。こ〃のへいづくなるらん》
{ワキ詞}〽︎是は日向国宮崎のしやくわん。藤原の興範とは我事,也。扨も,我鄙の,すまひなるによつて。未伊勢大神宮へ参らず候程に。此度思ひ立。伊勢参宮と志て候。
{上哥}《旅衣。おもひ立ぬる朝ぼらけ。〃。弥生の,そらも半にて。日影のどかに,ゆく舟の。うら〃過て,はる〃と。波の,あはぢを余所に見て。須磨の,うらにも着にけり〃》
{詞}急候程に。津の,くに須磨の,うらに付て候。此所は聞及びし源氏の大将すみたる在所にて候。又承及びたる若木の桜をも一見せばやと思ひ候。
{シテ一セイ}〽︎《浮世の,わざにこりずまの。猶こり,はてぬ。塩木かな》
{二句}〽︎《松ならで又煙と,みゆる。是や真柴の。陰ならん》
{サシ}《是は須磨の,うらに。旦暮に釣を,たれ。やかぬ間は塩木を,はこび。う世を,渡者にて候,也》
{詞}また此すまの山陰に一木の花の候。名におふ,わか木の桜なるべし。いにしへ光源氏の御旧跡も。此所にて有げに候》
{下哥}《我ら,いやしき身なれども。有し雨夜の物がたり》
{上哥}《聞にも袖を,うるほして。〃。山の薪のおもきにも。思ひ樒を折そへて。彼古墳ぞと,ゆふ花の。手向の梢,折〃に。心をはこぶ計なり。〃》
{詞}暫やすらひ花をも詠めばやと思ひ候。
{ワキ}〽︎いかに是成翁に尋ぬべき事の候。
{シテ}〽︎なに事にて候ぞ。
{ワキ}〽︎その身は賎しき山賎なれども。此花に詠入家路を忘たる気色なり。もし此花は,ゆへある木にて候か。
{シテ}〽︎山賎と承候へども。おほそれながらそなたをこそ。鄙人とは見奉て候へ。さすがに須磨の,わか木の桜を。名木かとのお尋は。ことあたらしう社候へとよ。
{ワキカ〃ル}〽︎《げに〃須磨の山桜。名におふ若木の花ぞとて。はる〃こ〃に,わけ入て》
{シテ}〽︎《わざと,ながめの御心ざし》
{ワキ}〽︎《日もはや,くれて須磨の,うらの》
{シテ}〽︎《さらば里にもお泊りなくて》
{ワキ}〽︎野を分山に》
{シテ}〽︎《来り給ふは》
{上同}《せきよりも。花にとまるか須磨の,うら。〃。近き,うしろの山さとの。柴といふものまで。名をとりとりの,わざなるに。た〃心なき,すまひとて。人な,いやしめ給ひそよ、〃》
{ワキ詞}〽︎如何に翁。古へ此所は光源氏の御旧跡。おことは年ふりたる者なれば。源氏の御事物がたり候へ。
{クリ地}忘れて過しいにしへを,かたらば袂やしほれなむ。我うつせみの空しき世を案ずるに。桐壺の,ゆふべの煙たえぬ思ひの。なみだをそへ》
{サシ}〽︎いとどしく,むしの音しげきあさぢふの》
{詞}《露けき宿に明暮らし。小萩が,もとの,さびしさまで。はごくみ給ひし御,恵み。いとも,かしこき勅により。十二にて,うゐ冠。高麗国の相人の。つけたりし,はじめより。光る源氏と名を,よばる。箒木の巻に中将。紅葉の賀の,まきに正三位に叙せられ。花の宴の春の夜の。行,方も,しらで,いる月の。おぼろけならぬ契り,ゆへ。年廿五と申せしに。津の,くに須磨の,うら。海士人の歎きを身に,つみて。つぎの春。播磨の,あかしの,うらつたひ。とはず語りの夢をさへ,うつ〃に,かたる人もなし。さる程に天下に。奇特の,つげ有しかば。又都に召かへされ。数の外の官を経て》
{上シテ}〽︎《其後うち,つ〃き》
{詞}《みをつくしに内大臣乙女の巻に。太政大臣藤の,うら葉に。太上天皇かく,たのしびを極て光る君とは申なり》
{上ロンギ地}〽︎《扨や源氏の旧跡の。〃。分ていづくの程やらん。くはしく,をしへ給へや》
{シテ上}〽︎《いづくとも。いさ,しら波のこ〃もとは。皆そのあとsと夕暮の。月の夜を待給ふべし。もしや奇特を御覧ぜん》
{上地}〽︎《そもや奇特を見むぞとは。なにをかまたん月影の》
{シテ}〽︎《光源氏の御すみか》
{地}〽︎《昔は須磨》
{シテ}〽︎《今は,とそつの》
{上同}《天に住給へば月宮のかげに,あまくだり此海に影向,有べし。か様に申翁も。其品〃の物語。源氏の巻の名なれや雲かくれしてぞ,うせにけり。
{ワキ詞}〽︎偖は源氏の大将,仮に人間と,げむじ。我に言葉を,かはし給ふか。いざや今宵は爰に,ゐて。猶も奇特を拝まむと》
{上哥}《須磨の,うら。野山の月に旅ねして。〃。心をすます,いそ枕。波にたぐへて音楽の聞ゆる声ぞ。有がたき、〃》
{後シテ上}〽︎《あら面しろの海原やな。我娑婆に有し時は。光源氏といはれ。今は,とそつにかへり。天上の住,居なれども。月に詠じて閻浮にくだり。所も須磨の浦なれば。青海波のあそび舞楽に。ひかれて月の夜しほの波。かへすなる。波の花,ちる,はく衣の袖》
{地}〽︎玉の笛の音声すみ渡る》
{シテ}〽︎しようちやくきんくこ。孤雲のひ〃き》
{上同}《天もうつるや須磨の,うらの。あら海の波風。ゑむ〃たり》
{上キリ詞}《雲となり雨となり。夢うつ〃とも,わかざるに。天より光りさす。御影の,うちにあらたなる。童男きたり給ふぞや。偖は名にしおふ。光る源氏の尊霊か》
{上シテ}〽︎《その名も余所に白浪のこ〃もとは,わがすみか。猶も他生を助けんと。とそつ天より。二たびこ〃に,あまくだる》
{上地}〽︎あら有難の御事や。所はすまの,うらなれば》
{シテ上}〽︎《四方の,あらしも吹落て》
{上地}〽︎《うす雲か〃る》
{シテ上}〽︎《春の空》
{上同}《ほんしやくしわうのにむでんに。くだり給ふかと,おぼえたり。所から山賎へきらといはれし。ゆるし,いろのきらなるに。あをにびの狩衣たをやかに召れて。須磨のあらしに,ひるがへし。袂も,あをき海の浪。颯〃の鈴も,むまやちの夜は山よりや明けぬらん夜は山よりや明けぬらん。〃。