明暦野田本「鉄輪」
15-774 鉄輪
{ヲカシ}〽︎加様に候者。貴ふねの宮に使へ申者にて候。扨も今夜不思議なる霊夢を蒙りて候、其謂は。都より女の丑の時参りをせられ候に申せと仰らる〃子細。あらたに御霊夢を蒙りて候ほどに。今夜参られ候は〃。御夢想の様を申さばやと存候。
{シテ次第}〽︎《日も数そひて恋衣。〃。貴ふねの宮に参らん》
{サシ}《実や蛛の家にあれたる駒は,つなぐとも。二道かくるあだ人を。頼まじと社。思ひしに。ひとの偽り,すゑしらで。契りそめにし悔しさも。た〃,我からの心なり。余り思ふもくるしさに。貴船の宮に詣でつ〃。すむかひもなき,おなじ。世の。うちに報ひを見せ給へと》
{下歌}《たのみを懸て貴ふね川。はやく,あゆみをはこばむ。
{上哥}《通ひなれたる道の,すゑ。〃。夜もた〃すのかはらぬは。思ひに沈む,みぞろ池,いけるかひなき,うき身の。きえん程とや草ふかき市原野辺の露分て。月遅き夜の,くらま川。橋を,すぐればほどもなく。貴ふねの,みやに,つきにけり。〃》
{ヲカシ}〽︎如何に申べき事の候。御身は都より丑の時参り召る〃御かたにて渡候か。今夜御身の,うへを御夢想に蒙て候。御申ある事ははや叶ひて候。鬼に成たきとの御願にて候程に。我屋へ御帰りあつて。身には,あかき衣を着。㒵には丹をぬり。頭には鉄輪を戴き。三つの,あしに火をともし。いかる心を,もつならば。忽鬼神と御なりあらふずるとの御告にて候。急ぎ御帰り有て,つげの,ごとく召れ候へ。なむぼう奇特なる御告にて御座候ふぞ。
{シテ詞}〽︎是は思ひもよらぬ仰にて候。わらはが事にはあるまじく候。定て人ちがひにて候ふべし。御入候べし。
{ヲカシ}〽︎いや〃しかとあらたなる御夢想にて候程に。御身の上にて候ぞ。加様に申,うちに何とやらん,おそろしく,みえ給ひて候急御帰り候へ
{シテ詞}〽︎是は不思議の御つげ哉。先〃わが,やに帰りつ〃。《夢想の,ごとく成べしと》
{上同}《いふより,はやく色かはり。〃。気色変じて今,迄は。美女の,かたちと見えつる。緑の髪は,そらざまに。たつや黒雲の。雨ふり風と,なる,かみも。おもふ中をば,さけられし。うらみの鬼と成て。人に思ひ,しらせむ。うき人に,おもひしらせむ。》
{男詞}〽︎か様に候者は。下京辺に住居仕る者にて候。われ此間うち,つ〃き夢見あしく候程に。晴明のもとに立越。夢の様をも,うらなはせばやと存候。如何に案内申候。
{ワキ詞}〽︎たれにて渡り候ぞ。
{男}〽︎さん候下京辺の者にて候が。此ほどうち,つ〃き夢見悪く候程に。尋申さん為に唯〃参りて候。
{ワキ}〽︎荒不思議や。是は女の恨を,ふかく蒙たる人にてわたり候。ことに今夜のうちに。御命も,あやうく見え給て候。もし左様の事にて候ふか。
{男}〽︎さむ候何をか隠し候べき。此間本妻を離別仕り。あたらしき妻をかたらひて候が。もし左様の事にて候か
{ワキ}〽︎げに左様に見え給ひて候。彼者仏神に祈その数つもつて。御命も今夜に究て候ほどに。それがしが調法には叶ひがたく候。
{男}〽︎是迄参り御目に懸り候事こそ幸にて候へ。ひらに然るべき様に御祈念あつて給り候へ。
{ワキ}〽︎此うへは何,共して御命を転じかへて参らせうずるにて候。
{上カ〃ル}《いで,てんじかへ申さむとて。ちの人形を人尺に作り。夫婦の名字をうちに,こめ。三重の,たかたな五色の幣。をの〃供物を調へて。肝胆をくだき祈れり。謹上再拝。夫天開け地かたまつしよりこのかた。伊弉諾伊弉冊尊。天の磐座にして。みとのまくばひ有しより。男女夫婦のかたらひをなし。陰陽の道。ながく伝はる。それになんぞ魍魎鬼神妨をなし。非業の命を,とらんとや》
{下同}《大小の神祇。諸仏菩薩。明王部天童部。九曜七星二十八宿を,おどろかし奉り祈ればふしぎや雨降風おち神鳴稲妻頻にみち〃御幣もざ〃めき鳴動して。身の毛よだちておそろしや》
{後シテ上}〽︎それ春の花は斜脚の暖風に,ひらけて。おなじく暮春の,かぜに,ちり。月は東山より出て,はやく西嶺に,かくれぬ。世情の無常かくの,ごとし。因果は車輪の,めぐるが,ごとく。我に,うかりし人〃に。たちまち報ひを見ずべき也。恋の身の,うかぶ事なき賀茂川に》
{上地}〽︎《しづみしは水の。青き鬼》
{シテ}〽︎《我は貴ふねの河瀬の,ほたる火》
{上地}〽︎《かうべに,いただく鉄輪の,あしの》
{シテ}〽︎《ほのほの赤き。鬼と成て》
{上同}〽︎ふしたる男の枕に,より,そひ。いかに,とのごよ。めづらしや》
{シテ下}〽︎《恨めしや御身と契りし其時は。玉椿の八千代。二葉の松の,すゑかけて。かはらじとこそ思ひしに。などしも捨ては果て給らん。あら,うらめしや。すてられて》
{下同}《捨られて。おもふ思ひの涙に,しづみ。人を,うらみ》
{シテ下}〽︎妻をかこち》
{上地}〽︎《ある時は恋しく》
{シテ下}〽︎《又はうらめしく》
{上詞}〽︎《おきても,ねても忘れぬ思ひの。因果は今ぞと,しら雪の消なむ命は,こよひぞ。痛はしや》
{上}《あしかれと。思はぬ山の峯にだに。〃。》人のなげきはおほなるに。いはんや年月。思ひにしづむ,うらみの数。つもつて執心の鬼となるも,ことはりや》
{シテ}〽︎《いで〃命を,とらむ》
{同}〃と。しもとを,ふり,あげうはなりの。髪を手にからまひて。うつやうつの山の。夢現とも。わかざるうき世に。因果はめぐりあひたり。今さらさこそくやしかるらめ。扨こりや,おもひ,しれ》
{シテ下}〽︎殊さら,うらめしき。》
{下同}《〃。あだし男をとつて,ゆかむと。ふしたる枕に立よりみれば。おそろしや,みてくらに。三十番神まし〃て。魍魎鬼神は,けがらはしや。出よと〃と責給ふぞや。腹立や思ふ妻をば。とらであまつさへ神〃の。責を蒙る悪鬼の神通つうりき自在の,いきほひ絶て。ちからもたよ〃と。あしよは車の,めぐり,あふべき時節を待べしや。先此度は帰るべしと。いふ声ばかりはさだかに聞えていふ声ばかり聞えて,すがたは目に見えぬ鬼とぞ成にける,めに見えぬ鬼と成にけり》