四百番本「橋姫」
19-5 橋姫
{ワキ詞｝〽是は諸国一見の僧にて候。扨もわれさる宿願の事あつて。此程は北山貴布祢の宮に。一七日参籠申て候。又是より和州にくだり。春日に参らばやと思ひ候
{道行｝《北時雨貴布祢の山をたちいでゝ。〃。東を見ればひえの山。月のよかはの雲のはの。おひえの杉の影見えて。日もたけゆけば程もなく。うぢの里にも着にけり〃》
{詞}〽面白の宇治のありさまやな。見渡せば水の水上雲つゞく。波にたゝへてしば舟の数々下り候ぞや。《あら面白のけしきや候》
{シテ女}〽なふ〃あれなる御僧は何所（イヅク）より此所へ御入候ぞ
{ワキ｝〽此方の事にて候か
{シテ}〽中々の事
{ワキ}〽是は北山貴布祢に参籠申。けさより出て。唯今是に来りて候
{シテ}〽さればこそきぶねにてよそながら見参らせさふらひつる程に。扨こそとひ参らせ候へ
{ワキ}〽ふしぎの事を承候物かな。貴布祢にてよそながら御覧ぜられたるとは。扨きぶねに御渡り候ひけるか
{シテ}〽さん候わらはは此うぢの里人なるが。毎夜きぶねに参る事の候。此橋本に御入候は。橋守の御神はし姫と申神にて御渡り候。橋姫と申は。きぶね御一躰の御事にて候程に。かやうに申候
{ワキ}〽げに〃橋姫と申神は。人間として人の世にすみ給ひける御事よなふ
{シテ}〽それは本よりその人ののちには神とあらはれて。又人間に生をうけて
{ワキ}〽《衆生済度の御方便
{シテ}〽神ともあらはれ
{ワキ}〽人ともなりて
{上歌同}〽世をわたるならひはうぢの橋姫の。〃。あだしちぎりになれいでしぞ。あはれとぞ思ふとしの。経ぬれば身のうへをしるもはづかしや。よしや思はじの。しのばじわすれん心こそ忘れぬよりは思ひなれ、〃》
{ワキ}〽猶々はしひめのいにしへの御事くはしく御物語候へ
{同上}〽《実やあだにのみすぎにし物をいにしへの。うき世がたりの身のうへに成きにけるこそあはれなれ
{サシシテ}〽むかし此里に住ける人。いもせの中にあり侘て。
{同}物の恋しきあかつきの。枕さびしきねやの月。かげを便になれ衣。まどをになるやつまごひの。鹿のおきふしねにたてゝ。なく斗なる。有様かな
{下曲}しかれば詠哥にも。さむしろに衣かたしく。今宵しもや我を待らん。うぢのはし姫と聞えしも我身の上にいかなれば。うき世語りの名のみたつ。うぢの川波うたかたの。あはれたゞこしかたの我身ぞこひしかりける。たゞいつとなく独ねの。更行かねのこゑ。むかし恋しき暁の。かけのたれをのみだれこひ夜こゑをそへていとゞなを。人まつ風ややま颪。おもひしげきの露時雨の。さだめなやうらめしやいつまでそではほさまし
{シテ上}思ひあまりてまつくれの。
{同}せめて思ひやなぐさむと。橋本に立出て。そなたのそらを詠れば。月のみ出る朝日山。かゞみをかけて雪の色。さも白妙の雲のなみ。川の落ゆく柴舟の。うき世をめぐる水車。かけてもせめておもへかし。いまはさながらとをづまの。まれにだにとひこぬうぢのはしひめぞ恋しき
{上}〽げに橋姫の物語。くはしくをしへおはします。御身いかなる人やらん
{シテ}〽はづかしながら我こそは其橋姫の幽霊の。しうしんたち帰る恋衣うらみは今に残れり
{同}扨はつきせぬ悪心の。猶こゝにしものこりつゝ
{シテ}〽その身のはてを。あらはさんと
{同}悪鬼のすがたにへんげして。則なみに立かよひ。をちにゆくかとおもひしに。其まゝ跡も白波の。又かへらむを待給へ〃》
{ワキ詞}〽あまりにふしぎなる御事にて候程に。暫此所に逗留し。
{上}《重てきとくを見るやとてうぢ川の水のしがらみ波かけて。〃。あじろの月のかげよりも。かのはし姫のをんりやうの。見え給ふこそふしぎなれ〃
{後シテ下一セイ}さ筵に。莓の衣をかたしきて。我をまつらんうぢの旅人
{ワキ}〽ふしぎやな先に見えつる里人の。姿はそれにて面色かはり。さもおそろしきかたちなり。こはそもいかなる事やらん》
{シテ}〽申につけてはづかしけれども。我とに（女）よしん（身）をあらためて。かく鬼神とはなりしなり
{ワキ}〽《扨々うぢの橋姫の。かやうに鬼神と成給ふ事
{シテ}〽嫉妬の思ひにみだれがみの。きぶねの神に祈をかけて
{ワキ}〽百夜参詣
{シテ}〽願力叶ひて
{同}〽忽に其かたち。〃、さもおそろしき悪鬼となつて。角生あかゞみさがつて。面色はさにぬりの。鬼がはらのごとくなり。おそろしのあく（悪）しん（心）や。わざとつくれる鬼一口のゆひことも。あつかひ草もしげからん恥かしや
{シテ下}〽かくてそのまゝ飛行を得て。
{同下}〃わがいほはうぢ山に。帰りつゝ。山にかけり河水にうかんで。ある時は朝日山。又有時は夕日山。くれ渡りはしにかけりて。川波の。うへをもはしり廻りて。柴舟の下りにはうちのりて。みだれざほ。こぎ出して。川波のまきのいたぶねをふみならし。さんかしんかにとびかけつて。是までなりや鬼のかたち。あさまにならじとうぢの山。暁の雲にあへる月の光も。いまはうすゞみに。かきみだしたる鬼のごとく。〃に。かたちもきえてぞうせにける》