元和卯月本「定家」
1-20 定家
{次第}《山よりいづる北時雨〃行ゑやさだめなかるらん》
{ワキ詞}〽是は北国がたより出たる僧にて候。我未都をみず候ほどに。此度思ひ立みやこに上り候
{道行}《冬立や旅の衣のあさまだき。〃。雲も行違遠近の山又やまを越過て。紅葉に残るながめまで。花の都に着にけり〃》
{ワキ詞}急候ほどに。是ははやみやこ千本のあたりにて有げに候。暫此あたりにやすらはヽやと思ひ候。面白や頃は神無月十日あまり。木〃の梢も冬がれて。枝に残りの紅葉の色。所〃の有様までも。都の気色はひとしほの。ながめことなる夕かな。あら咲止や。にはかに時雨がふり来りて候。是によし有げなる宿りの候。立より時雨をはらさばやと思ひ候
{シテ女詞}〽なふ〃御僧。そのやどりへは。何とて立より給ひ候ぞ
{ワキ詞}〽唯今の時雨をはらさむためにたち寄てこそ候へ。扨爰をいづくと申候ぞ
{女}〽それは時雨の亭とてよし有所なり。其心をもしろしめして立寄せ給ふかと。思へばかやうに申也
{ワキ}実〃是なる額をみれば。時雨の亭とかヽれたり。折から面白ふこそ候へ。是は如何成人のたて置れたる所にて候ぞ
{女}〽是は藤原の定家卿のたて置たまへる所なり。都のうちとは申ながら。心すごくしぐれ物哀なればとてこの亭をたてをき。時雨の比の年〃は。爰にて歌をも詠じ給ひしとなり。
{下}《古跡といひ折からといひ。其心をもしろしめして。逆縁の法をもとき給ひ。彼御菩堤を御弔ひあれと。進めまいらせむ其為に。是まであらはれ来りたり》
{ワキ詞}〽扨は藤原の定家卿のたてをき給へる所かや。さて〃時雨をとヽむる宿の。歌はいづれのことの葉やらん
{女}〽いや何れ共さだめなき。しぐれのころの年〃なれば。分てそれとは申がたしさりながら。時雨ときをしるといふ心を。
{下}《いつはりのなき世なりけり神無月》。
{詞}たがまことより時雨そめけん。此ことがきにわたくしの家にてとかヽれたれば。若此歌をや申べき
{ワキ}〽《げに哀なることの葉かな。さしも時雨はいつはりの。なき世にのこる跡ながら
{女}〽人はあだなるふることを。語れば今もかりの世に
{ワキ}〽他生の縁は朽もせぬ。是ぞ一樹の陰のやどり
{女}〽一河のながれを汲てだに
{ワキ}〽こヽろをしれと
{女}〽おりからに
{上歌同}今ふるも宿は昔の時雨にて。〃。心すみにし其人の。あはれをしるも夢の世の。実さだめなや定家の。軒端の夕しぐれ。ふるきにかへる涙かな。庭もまがきもそれとなく。あれのみまさる草むらの。露のやどりもかれ〃に物すごきゆふべなりけり 〃》
{女詞}〽けふはこヽろざす日にて候程に。墓所へまいり候御まいり候へかし
{ワキ}〽それこそ出家の望にて候へ。やがて参らふずるにて候
{女}〽なふ〃是成石塔御覧候へ
{ワキ}〽ふしぎやな是成石塔をみれば。星霜ふりたるにつた葛はひまとひ。かたちもみえず候。是は如何成人のしるしにて候ぞ
{女}〽これは式子内親王の御はかにて候。又此かづらをば定家葛と申候
{ワキ}〽あら面白や定家かづらとは。如何様成いはれにて候ぞ御物がたり候へ
{女}〽式子内親王はじめは賀茂の斎の官にそなはり給ひしが。ほどなくおりゐさせ給ひしを。定家卿忍び〃の御契りあさからず。其後式子内親王ほどなくむなしく成給ひしに。定家の執心かづらとなつて御墓にはひまとひ。たがひのくるしび離れやらず。《共に邪淫の妄執を。御経を読とぶらひ給はヽ。猶〃語りまいらせ候はん
{クリ同}忘れぬものをいにしへの。心のおくのしのぶ山。忍びてかよふ道しばの露の。世がたりよしぞなき
{サシ女}〽今は玉の緒よ絶なばたえねながらへば。
{同}忍ぶる事のよはるなる。こヽろのあきの花すヽき。ほに出初し契りとて又かれ〃のなかと成て
{下女}〽昔は物を思はざりし
{同}後の心ぞ。はてしもなき
{クセ}あはれしれしもよりしもに朽果て。世〃にふりにしやまあひの袖の涙の身のむかし。うき恋せじとみそぎせし。賀茂の斎院にしも。備はり給ふ身なれ共。神やうけずもなりにけん。人の契りの色にいでけるぞかなしき。つヽむとすれどあだし世のあだなる中の名はもれて。余所の聞えはおほかたの空おそろしき日の光。雲の通路たえ果て乙女の姿とヽめえぬ心ぞつらき諸共に
{上女}〽実や嘆くとも。こふともあはむ道やなき
{同}君かづらきの嶺の雲と詠じけん心まで。思へばかヽる執心のていか葛と身は成て。此御跡にいつとなく。はなれもやらでつた紅葉の。いろこがれまとはり。荊の髪もむすぼヽれ。露しもにきえかへる妄執をたすけ給へや
{上ロンギ地}ふりにし事をきくからに。けふもほどなくくれはとりあやしや御身誰やらん
{上女}〽たれとてもなき身のはてはあさぢふの。霜に朽にし名ばかりは残りても猶よしぞなき
{地}〽よしや草葉の忍ぶ共。色にはいでよ其名をも
{女}〽今はつヽまじ
{地}〽此上は。我こそ式子内親王。是までみえ来れども。まことの姿はかげろふのいしに残すかたちだに。それともみえずつたかづらくるしみをたすけ給へと云かと見えてうせにけり〃
{ワキ上歌}〽夕も過る月影に。〃。松風吹て物すごき草の陰なるつゆの身を。思ひのたまのかず〃に。とぶらふ縁は有難や 〃
{下女後}〽夢かとよやみのうつヽの。うつの山月にもたどる。つたのほそ道。昔は松風蘿月にことばをかはし。翠帳紅閨にまくらをならべ
{地}〽さま〃成し情のすゑ
{女}〽花も紅葉も散〃に
{地}〽あしたの雲
{女}〽夕の雨と
{同}ふることもいまの身も夢もうつヽも。まぼろしも。ともに無常の世となりて跡も残らず。なに中〃の草の陰。さらば葎の宿ならで。そとはつれなき定家かづら是見給へや御僧
{下ワキ}〽あらいたはしの御有様やなあら痛はしや。佛平等説女一味雨。随衆生性所受不同
{下女}〽御覧ぜよ身はあだ浪のたちゐだに。なき跡までも苦しみの。定家かづらに身をとぢられて。かヽるくるしみ隙なき處に。有がたや。
{上}唯今読誦し給ふは薬草喩品よなふ
{ワキカヽル}〽中〃なれや此妙典に。もるヽ草木のあらざれば。執心の葛をかけはなれて。仏道ならせ給ふべし
{女}〽あら有難やげにも〃。是ぞたへなる法のをしへ
{ワキ上}〽あまねき露のめぐみをうけて
{女}〽ふたつもなく
{ワキ}〽みつもなき
{上同}一味の御法のあめのしたヽりみなうるほひて。草木国土。悉皆成佛のきを得ぬれば。定家葛もかヽる涙も。ほろ〃ととけひろごれば。よろ〃と足よはくるまの火宅を。出たる有難さよ。此報恩にいざさらば。ありし雲ゐの花のそで。昔をいまにかへすなる。其まひ姫の小忌ころも
{上女}〽おもなの舞の
{地}有様やな
{上女}〽おもなのまひの有様やな
{上同}おもなやおもはゆのありさまやな
{下女}〽本より此身は
{上地}〽月のかほばせも
{下女}〽くもりがちに
{上地}〽かつらのまゆずみも
{下女}〽おちぶるヽ涙の
{上詞}露ときえてもつたなや蔦の葉のかづらきの神すがたはづかしやよしなや。よるの契りの夢のうちにと有つるところに帰るはくずの葉の。もとのごとくはひまとはるヽや定家かづら。はひまとはるヽや定家葛の。はかなくもかたちはうづもれてうせにけり》