元和卯月本「ゆや」
2-3ゆや
{ワキ詞}〽是は平の宗盛也。扨も 遠江国池田の宿の長をば湯谷と申候。ひさしく都に留め置て候が。老母のいたはりとてたび〃暇を乞候へ共。此春ばかりの花見の友と思ひとゝめ置て候。如何に誰かある
{トモ}〽御前に候。
{ワキ}〽遊屋来りてあらばこなたへ申候へ。
{トモ}〽畏て候。
{ツレ女次第}〽《夢のまおしき春なれや。〃。咲比花を尋ねむ。
{ツレカヽル}是は遠江国池田のしゆく。長者の御内に仕へ申。槿と申女にて候。》
{詞}扨も遊屋久しく都に御入候が。此ほど老母の御痛はりとて。度〃人を御上せ候へ共。更に御下もなく候程に。此度はあさがほが御迎にのぼり候。
{道行}《此程の旅の衣の日もそひて。〃。いく夕暮の宿ならむ。夢もかずそふかり枕。あかし暮して程もなく。都にはやく着にけり〃》
{詞}荒嬉しや急候程に。都に着て候。是成御うちがゆやの御入候所にて有げに候。まづ〃案内を申さばやと思ひ候。如何に案内申候。池田の宿より槿がまいりて候。それ〃御申候へ
{シテサシ}〽《草木は雨露のめぐみ。養ひ得ては花の父母たり。いはむや人間にをひてをや。あら御心許なやなにとか御入候覧》
{ツレ詞}〽池田の宿より槿がまいりて候。
{シテ詞}〽なに槿と申か。荒めづらしや。扨御痛はりは何と御入有ぞ
{ツレ}〽以外に御いり候。是に御文の候御覧候へ。
{シテ}〽あら嬉しやまづ〃御ふみを見ふずるにて候。荒笑止や此御文のやうも頼みずくなふ見えて候
{ツレ}〽左様に御入候。
{シテ}〽此上は槿をもつれてまいり。又此ふみをも御めに懸て。御暇を申さふずるにてあるぞこなたへ来り候へ。誰かわたり候
{トモ}〽や湯谷の御まいりにて候。
{シテ}〽童がまいりたるよし御申候へ。
{トモ}〽心得申候。如何に申上候。ゆやの御参りにて候
{ワキ}〽此方へ来れと申候へ。
{トモ}〽畏て候此方へ御まいりあれとの御事にて候
{シテ}〽如何に申上候。老母のいたはり以外に候とて。此度は槿に文を上せて候。びむなふ候へ共そと見参にいれ候べし。
{ワキ}〽なにと故郷よりの文と候や。見る迄もなしそれにてたからかによみ候へ。
{シテ}〽《甘泉殿の春の夜の夢。心をくだくはしと也。りざむけふの秋のよの月をはりなきにしもあらず。末世一代教主の如来も。生死の掟てをばのがれ給はず。過にし衣更着の比申しごとく。何とやらん此春は。年ふりまさる朽木桜。ことし計のはなをだに。待もやせじと心よはき。おひの鴬あふ事も。涙にむせぶばかり也。唯然るべくはよきやうに申。しばしの御暇を給はりて。今一度まみえおはしませ。さなきだに親子は一世のなかなるに。おなじ世にだにそひ給はずは。孝行にもはづれ給ふべし。唯かへす〃も命のうちに今ひとたび見まいらせたくこそ候へとよ。老ぬればさらぬ別のありといへば。いよ〃みまくほしき君哉と。ふることまでも思ひ出の涙ながら書留む。
{上歌同}そも此哥と申は。〃在原の業平の。其身は朝にひまなきを。長岡に住給ふ老母のよめる哥なり。扨こそ業平も。さらぬわかれのなくもがな。千世もといのる子のためと讀し事こそ。あはれなれ〃
{下シテ}〽いまはか様に候へば。御暇を給はり。東に下り候べし》
{ワキ詞}〽老母のいたはりはさる事なれども去ながら。此春ばかりの花見のとも。いかでか見すて給ふべき。
{シテ上}〽《御言葉をかへせば恐れなれ共。花ははるあらば今にかぎるべからず。これはあだなる玉のをの。ながきわかれと成やせん。唯御暇を給はり候へ》
{ワキ詞}〽いや〃左様に心よはき。身に任せてはかなふまじ。如何にもこころを慰さめの。花見の車同車にて。
{カヽル}《ともに心をなぐさまむと。
{上歌同}牛飼車よせよとて。〃。是も思ひの家のうち。はや御出とすゝむれど心はさきにゆきかぬる。足よはくるまのちからなき花見なりけり
{シテ}〽名も清き。水のまに〃とめくれば
{地}〽河は音羽の山桜
{シテ}〽東路とてもひがし山せめて。そなたのなつかしや
{地上}〽春前に雨あつて花の開る事はやし。秋後に霜なふして落葉をそし。山外に山あつて山つきず。路中に道おほふして道極りなし。
{シテ}〽山青く山白くして雲来去す。
{同}ひとたのしみひと愁ふ是みな世上の有様なり。
{下同}誰かいつし春の色。実長閑なるひがし山
{上歌同}四條五條の橋の上。〃。老若男女貴賎とひ。色めく花ころも袖をつらねて行すゑの。雲かと見えてやへひとへ咲九重の花盛名におふ春の。けしきかな〃
{上ロンギ地}かはらおもてを過行ば。急ぐ心のほどもなく。車大路や六波羅の地蔵堂よとふしおがむ
{上シテ}〽観音も同座あり。闡提救世の。方便あらたにたらちねをまもり給へや。
{地}〽実や守りのすゑすぐに。頼む命はしら玉の愛岩の寺もうち過ぬ。六道の辻とかや。
{シテ}〽実おそろしや此道は。冥途に通ふなる物を。こころぼそ鳥部山。
{地}〽煙のすゑも薄霞む。こゑも旅鴈のよこたはる
{シテ}〽北斗の星の曇なき。
{地}〽御法の花も開く成。
{下シテ}〽経書堂は是かとよ。
{地}〽其垂乳根を尋ぬなる子安の塔を過行ば
{シテ}〽はるの隙ゆく駒の道。
{地}〽早程もなく是ぞこの
{シテ}〽車やどり
{地}〽馬留め。爰より花車。おりゐのころもはりまがたしかまのかち路清水の。仏の御前に。念誦して母の祈誓を申さむ》
{ワキ詞}〽如何に誰かある
{トモ}〽御前に候
{ワキ}〽湯谷はいづくにあるぞ
{トモ}〽未御堂に御座候
{ワキ}〽何とてゆやは遅なはりたるぞ。急ひでこなたへと申候へ
{トモ}〽畏て候如何に槿に申候。はや花の本の御酒宴の始りて候。急ひで御まいりあれとの御事にて候。其よし仰られ候へ。
{ツレ}〽心得申候。如何に申候。はや花の本の御酒宴のはじまりて候。急ひで御まいりあれとの御事にて候。
{シテ}〽何と御酒宴のはじまりたると申か。
{ツレ}〽さむ候。
{シテ}〽さらば参らふずるにて候。なふ〃皆〃ちかふ御まいり候へ。荒面白の花や候。今を盛と見えて候に。何とて御当座などをもあそばされ候はぬぞ。
{クリ}〽《実や思ひうちにあれば。色外にあらはる。
{同}よしやよしなき世の習。歎ても又あまりあり。
{サシ}〽花前に蝶まふ紛々たる雪。
{同}柳上に鴬飛片々たる金。華は流水に随つて香の来る事とし。かねは寒雲を隔てこゑのいたる事遅し。
{クセ}清水寺のかねの聲。祇園精舎をあらはし。諸行無常のこゑやらん。地主権現の花の色。娑羅双樹のことはりなり。生者必滅の世のならひ。実ためしあるよそほひ。仏も本はすてしよの。なかば雲に上見えぬ。鷲のお山の名を残す。寺は桂のはしばしら。立出て峯の雲。花やあらぬはつ桜の祇園林しも河原。
{上}〽南をはるかに詠むれば。
{同}〽大悲擁護のうす霞。熊野権現のうつります御名もおなじいまくまの。いなりの山のうす紅葉の。青かりし葉の秋又花の春は清水の。唯たのめたのもしきはるもちゞの華さかり
{上シテ}〽山の名の。音羽あらしの花の雪
{地}〽深き情を。人やしる》
{シテ詞}〽童御酌にまいり候べし。
{ワキ詞}〽如何にゆや一さしまひ候へ
{地}〽《ふかき情を。人やしる》
{シテ詞}〽なふ〃にはかに村雨のして。花のちり候はいかに
{ワキ}〽げに〃むらさめのして花の散候よ。
{上シテ}〽《あらこころなのむらさめやな春雨の。
{地}〽ふるはなみだか〃さくらばな。散をおしまぬ。人やある。
{ワキ詞}〽よしありげなること葉のたね取あげ見れば。《いかにせんみやこの春もおしけれど
{下シテ}〽なれしあづまの花やちるらん》
{ワキ詞}〽実道理なり哀也。はや〃いとまとらするぞ東に下り候へ
{上シテ}〽《何御いとまと候や》
{ワキ詞}〽中〃の事とく〃くだり給ふべし
{下シテ}〽《あらうれしやたうとやな。是観音の御りしやうなり
{下カヽル}是までなりやうれしやな。
{下同}是迄なりやうれしやな。かくて都に御供せば。またもや御意のかはるべき。たゞ此まゝに御いとまと。ゆふつけのとりがなくあずまぢさして行道の。やがてやすらふ逢坂の。関の戸ざしも心して。あけゆく跡の山見えて。花を見すつるかりがねのそれはこし路我は又。あづまに帰る名残かな〃》