五百番本「現在檜垣」

09-3現在檜垣

{次第}《心づくしの歌枕。〃。よすがにいざや尋ねん》、
{ワキ詞}〽是は延喜帝に仕へ申。藤原の興範にて候。我君古今集を撰ぜられ候が。猶も四方の名前の旧跡。能よく見て参れとの宣旨を蒙り。只今九州に趣き候、
{上道行}《篠目とひとしく都いで舟の。〃。難波の芦のふしの間も。ねられぬ旅路重りて。八重の塩風静にて。はる〃成し筑紫潟。肥後の国にも着にけり、〃》。
{詞}急候程に肥後の府に着て候。先承り及たる。岩戸の観世音に参らばやと思ひ候。是によし有げ成庵の候。立寄此辺りの事ども尋ばやと存候、
{シテサシ}〽《夫遠山のまゆずみも匂ひを忘れ。夕べには鴛鴦のふすまのひとへ成。河さきのかげうとく。独りの床ぞ物うけれ。扨もやつらき憂身ぞと思へどいとゞ消やらぬ。妄執の縁社浅ましや候》、
{ワキ}〽いかに此庵の内へ案内申候はん、
{シテ}〽案内とは誰にて渡り候ぞ、
{ワキ}〽是は都方の者にて候が。さつまがたまで通り候。■■の船路に疲労せり。暫く庵をかし給へつかれを休めたふ候。折ふしのんどかはき候水やあるたび候へ、
{シテ}〽見奉れば雲の上人なり。何とて懸る遠国の果までは御入候ぞ。
{上}《実痛はしき御事かな。さあらば水を参らせんと。桶と釣瓶をたづさへて、
{ワキ上}〽爰白河の、
{シテ上}〽水汲ば、
{次第}つるべの水に影をちて。〃、袂を月や上るらん》、
{シテ}〽いかに旅人水召れ候へ、
{ワキ}〽あら嬉しや更ば給はり候はん、
{シテ下}〽《年ふれば。我黒髪も白河の。三輪くむまで。老にける哉》、
{ワキ}〽荒面白や三はくむとは。三輪清浄にて。自性法身変化法身受用法身。是三輪清浄にて。功徳円満の所を。等流法身と名付。其心をよみ給ひたるな、
{シテ}〽いやさには侍らはず。老てかゝめる姿をこそ。
{上}《三輪くむとは読しなり、
{上同}唯世の中は白河の。〃。水にひとしき此身哉ゆく物はかくのごとくにて夜昼分ぬ習ひなり。人間無常世界にて。栄へおとろふ。天上のたのしみも夢のうちに五衰あり。ねざめ物うき古寺の。松の葉しげき袖の露はらひ兼たる浅ましや、〃》、
{ワキ}〽いかに老女。御身の言葉の風情。殊に和歌のさま凡人ならぬ有様なり。おことの越方御物がたり候へ、
{シテ}〽来し方は筑前の太宰府に住しが。今は衰へ此白河にさすらひ候、
{ワキ}〽実今思ひ出したり庵に檜垣しつらひ給ふは。若もひがきの白女や覧、
{シテ}〽忘れて年を経し物を。
{下}《今更檜垣の女ぞと。問せ給ふはおもはゆや》、
{ワキ}〽荒痛はしの有様や。思はず我も爰に来て。見々へ申もすくせならん。又世々に人の申せしは。老女は舞曲世に越て。殊には乱拍子のみだれ足。見ぬ唐土より伝へ給ふとかや。老の慰といひ我等日比の願望なれば。一さし■て御見せ候へかし、
{シテ}〽あらうつゝなや乱拍子の足とはおほけなき御詞や候。いでさらば長き御筐に乱拍子の子細御物語申候べし、
{ワキ}〽頓て御物がたり候へ、
{クリ同}《抑蘭拍子と申事。今はむかしに唐帝の御宇より始る曲とかや
{サシ}〽然るに玄宗皇帝は。音律に長じ給ひし御門也。
{下同}時は天宝年中仲秋三五の秋、
{下シテ}〽通幽といへる仙人来りて。
{同}仙術を以て月の都へ。銀橋を渡し皇帝を。月宮殿へ。いざなひ鳧
{クセ下}月の都に至りまし。あまつ乙女の返す袖月の桂の花やかに。異香四方に散満し舞曲たけなはに心澄。聞に我かの気色也。元来音楽に長じ給ひし事なれば天乙女の足ぶみ。ひる返す袖の色。調子拍子もさながら。一器の水を。一器に移す如く悉く悟り得てやうきひに教へ給ひつゝ。楽の名を霓裳羽衣と名付つゝ、
{上}〽重なる拍子出る足。
{同}又引足や。頭ふむ足に。程のぶる足ぶみ。是を五つの秘足とし。たけたる拍子なるをこそ。闌拍子と号しつゝ秘底にふかく納めしを。はらはふしぎに此ひきよくつたえていまにいられり、
{下シテ}〽むかしこひしきまひの袖、
{上同}かへす〃も。恥かしや、
{ラン拍子}{ワカ上}〽水むすぶ。袂に月や。登らん、
{上同}影白河の水にうつれば。〃、〃、
{下シテノル}〽恋しき物は越方の、
{下同}〃。哀れなりける夢のよがたり、
{シテ下}〽夜もしら〃と横雲に。
{同}ひま白く成行ば興範も名残の袂もたゆみ、
{上シテ}〽玉のをも絶ずは、
{同}又もおあふせと庵を出させ給ひければ、
{上シテ}〽さるにても、〃。
{上同}水のえにしに雲の上人にまみえ参らせ。うつゝなき舞の手恥かしさよとなく〃跡を。暫しは見送り賎がふせやにとゞまりけり》