五百番本「隠里」

20-2隠里

{ワキ詞}〽是は相模の国より下総の方へ罷通る旅人にて候。幸道すがらなれば武蔵野を一見せばやと存候、
{上道行}《武蔵野は行ども秋の果しなき。〃、末は焉くと白露に。宿りて月も入間川。秋は霧こそたつ暮に霞が関はいかにぞと。跡はる〃゛と見返の里にもはやくつきにけり、〃》、
{詞}荒笑止や日の暮て候。かゝる野中に宿求むべき様もなく。前後を弁へず候はいかに。荒物すごや候、
{シテサシ上}〽《深窓に居ては花月を見ず。翠帳透間なければ秋風も絶たり。独り寝に片敷袖の夢覚て。起かへるをや別れとも。いはれの池にあらねども、
{上歌}いつしか妻を水かゞみ、〃。曇るこゝろを我ながら。泪の雨のなす業と。恨つ侘つ泣あかす、〃》、
{ワキ詞}〽我物すごき野にやすらふ所に。女性の声の聞ゆるは。乞丐人にてある哉覧、
{シテ}〽さん候自は御身に恩を得し者にて侍らふが。せめて其報恩にお宿参らせん為に来りたり。
{上カヽル}《いざ此方へと手をとりて、
{上歌同}玉鉾の道もさだかに白真弓。〃。ひかるゝ侭に行ほどにあるべき里とおもほえぬ富の屋形に着にけり、〃》
{シテ}〽爰は童が寝所なり垂乳根の方へは程遠く候。是に暫く御休み候へ、
{ワキ}〽荒うれしや扨只今は我に恩を得たる。其報恩などゝ承るは更に心得がたふ候。いかなる事ぞ御物語候へ、
{シテ上カヽル}〽《名乗ずとても我事は、
{ワキ}〽後にぞそれと、
{シテ}〽しら玉の、
{ワキ}〽何ぞとなどか、
{シテ}〽問給ふ、
{上同}只とにかくに君と我、〃。宿世のえにしふかくして。むすぶや水の底ぞとも。知らぬ国にてあふせの浪。枕ならぶるふしぎさよ》、
{詞}いで〃旅の御つかれ休、
{上カヽル}酒一つ参らせん、
{上歌同}酌やくめこの酒を。所がらにや武蔵野ゝ。草は数多に生ふれども。千世を経ぬべき菊の酒。匂ひもふかき情にはお酌とりにもみづから。御逢手にもわらはなり。何とて打とけ給はぬぞ。夏衣君の心にうらやある。我はひとへに咲花の。ききやうしらんわれもかう。我からたべ申さんと。実も尽せぬ盃の。かずもはや暁の。別れの鐘にかぞへなす。旅路にいそがせ給ふべし我も父母に恐れ有》、
{シテ}〽今は何をかつゝむべき。けふの昼さきの宿にて童べ共の手にかゝり。不慮に命をとられんと。あやうかりし所に。御身の情により。たすかりし者也。此所は隠里とて人更に知らぬ所にて。金銀珠玉にあきみちて。何に不足もなき所なれば。留申度は候え共。甲斐なき身のあさましや争かくらまし申べき、
{上カヽル}《富の守りと成申さん、
{上地}是を御身に参らする。〃と。ひとつのこがねの玉を捧げ。さらばといひし声だにも。尾花がすゑの風吹返し、〃。まだ暮やらぬ日中に。夢の覚たる心地にて古里に帰るふしぎさよ、〃》、
{ワキ}〽荒不思義や心ならず。我宿に帰りて候はいかに。扨は彼女は隠里の霊鼠にて候ひけるぞや、
{上歌}《畜類なれど助くれば、〃。恩報ずる心ざし天の順行にことならず。ましてや人として恩を得て恩を知らずば。木石にひとしかるべし。人を愛しいつくしむ。家には天をいのらずとも。神は守りの頼もしや、〃、
{後シテ上}〽我は是隠里に住霊鼠なるが。不慮に命を断むとせしを。御身の情に預りし。其御礼を申さんとて。是迄又こそ参りさぶらふ、
{ワキ上カヽル}〽不思儀や扨は前の夜。一夜泊りの仮寝せし其あるじにてましますか、
{上同}猶も御家繁昌の行末守りと成べしと。いふかと思へば雲霞。立紛れてぞうせにける》