四百番本「粟津采女」

7-2粟津采女

{次第}《道こそなけれ世の外の。〃、山はしかのねなりけり、》
{ワキ詞}〽是は東国方より出たる僧にて候。我此程は江州に候て。名所旧跡一見仕て候。けふは又石山まうでし。それより都に罷上らばやと思ひ候、
{上道行}《近江路や、数そふひなみかかげろふの。〃、石山寺を立出て。にほの追風早天と、きり間をわくる墨染の。袖は夕部の気色そふ。秋の心やうたかたの、粟津の原に着にけり、〃、》
{シテ女詞}〽なふ〃あれなる御僧はいづくよりいづかたへ御とをり候ぞ、
{ワキ}〽さん候是は東国方より都へのぼる僧にて候。扨何の為に御尋候ぞ、
{シテカヽル}〽《道行ふりの袖までも。えんは朽せぬ苔の下。名のみのこりてなきあとぞ。逆縁ながら法の手向。すゝめまいらせんためぞかし、》
{ワキ}〽そも逆縁の手向とは。それこそ出家の望なれ。扨其在所は何くにて候ぞ、
{シテ}〽さらばこなたへ御入あれと申候ぞ。
{カヽル}《さきだつ夕部の道はいりぬる、
{ワキ}〽磯辺をつたひ、
{シテ}〽よるや、
{二人}〽みぎはの、
{上同}粟津のゝをばなも、今はなみならで。〃、水海せばき。せたの長橋縁まで。見わたされたる海山の。行末かけておもしろや。山田やはせのわたし船。浮世のうへのあはれにて。夢に夢路を行心、さだめなき世のたぐひかな、〃、
{下}うらよりをちに、はる〃と。〃、野をわけ衣日もすでに、暮と思ふ松陰の。霧の岡辺の里とへば。人はこたへず山おろしの、風のまに〃とめ来きて。なき跡にだどり着にけり、〃、》
{シテ詞}〽いかに御僧。是こそさきに申つる人のなき跡にて候へ。
{ワキ詞}〽痛はしや主は誰ともしらねども。せいさうつもり人跡絶て。とぶらふ人もなき跡と見えて、御痛はしうこそ候へ、
{シテ}〽仰のごとくあまりとをき御年なれば。今はとぶらひまいらする人もなし。是こそかたじけなくもあめの御門の御后にて候へ。むかし此粟津の原にしばらく皇居たりしが。御命かぎりあつて。此原の土中にうづもれ給ふ。其時ひとりの采女有しが。叡慮にかなひ御情浅からざりしに。御別をかなしび参らせ御供申。おなじ土中にうづもれぬ。
{カヽル}《及ばぬ月の御面影。そばではいかで死別のおもひに。生る身ながらこけの下に。うづもれはてし亡心ぞと、
{下哥}夕部の山の陰すごき。をのゝ草村つゆ深き。跡のしるしの名さへ世に。きえはてゝなき跡を。とぶらひたすけ給へや、
{上哥}久堅の、宮古はいつの空なれや。〃、月はかはらぬ鏡山。ひがたぞ見えし、にほのうみの。面影や残るらん。むかしながらの山桜。花も紅葉も散々に。成にし跡ぞ我とても。まぼろしのまのすがたぞと、ゆふ日かくれになりにけり、〃、
{ワキ上哥}〽此妙経を夜もすがら。〃、空に誦すれば月かげも。いとくすみます心ちして、あまねく法の手向かな、〃、
{シテ後}〽あら有難の御事や。おぐしの御衣にあらねども。余経を拝し御身にそふ。なをし姿は恥かしながら。あはれび給へ法の人。世を背く。山のみなみのまつ陰に、
{地}〽苔のころもは夜さむなる、
{シテ}〽かりねの夢を。さましつゝ、〽御法のこゑや。野分虫の音。ながき夜あらぬ心かな、
{クリ}抑天の御門の御とき。ひとりの采女おもはずも。えいりよにかゝることばの露。浅からざりしめぐみかや、
{サシ女}〽猶朽残るおもひの色、
{同}袖はおばなのほにいでゝ。まねけど来る事もなく、
{シテ}〽そのぬしならぬ面影を。せめて形見のから衣。身に添来ぬる。年月かな、
{クセ中}積るや妄執の。霜雪露と消もせで。猶残る身のつみとがを。ざんげに今はあらはして。なをし冠はそれなれども。女の心の。つよからぬ歌の言葉のあはれなる様に、人やみん。うつゝなやよしなや、みだれ心の色ならん、
{上}〽立居くるしき恋の身の。
{同}思ひうちに有時は。心ざしやあさぢふの。すゑのことばの色に出て。手のまひあしのふみどころ、しらぬ心こそ立まふ人の物おもひ。はづかしやよしさらば、歌舞の妙曲と思はん、
{シテ下}〽かぶの妙曲仏事のこゑ、
{上ワカ}かぶの妙曲仏事のこゑ、
{地}〽かぶの妙曲仏事の。声々、
{シテ}〽おもへど因果はのがれぬ罪障。
{同}せつりもしゆたもかはらぬ姿に、冠もなをして皆ぬぎ捨て。いうならくならくの底に。沈みはてたる苦患かな、
{下シテ}〽万死万生ちぐの思ひ、
{下地}〽万死万生ちぐのおもひに、
{シテ}〽沈めばこがれ
{地}〽あがればほのほ。たうせんけんしゆのえだにくだり。たはむもつみの。なれるをもさ。落ると見るも、
{下シテ}〽空蝉の身をかゆる、
{上同}〽からは残りて執心の。参らば残りて執心の姿。只落々とぞきえにける》