元和卯月本「善界」

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1-22 善界


{次第}《雲路をしのぐ旅の空。〃。出る日の本を尋む》
{シテ詞}〽是は大唐の天狗の首領善界房にて候。扨もわが国にをひて。育王山青龍寺。般若台に至る迄少も慢心の輩をば。皆我道に誘引せずと云事なし。誠や日本は粟散辺地の小国なれ共神国として。仏法今にさかむなるよし承及候間。いそぎ日本に渡り。仏法をもさまたげばやと存候。
{道行}《名にしおふ。とよあし原の国津神。〃。あをうなばらにさしおろす。あまのとほこの露なれや秋津島根の朝開。そなたもしるく浮ぶ日の。神の御国は是かとよ。〃。》
{シテ詞}急候程に。是はゝや日本の地に着たると存候。まづ承及びたる愛宕山に立越。太郎房に案内を申さばやと存候。是はゝや愛宕山にてありげに候。山の姿。木のこだち。是こそ我等がすむべき所にて候へ。如何に案内申候。
{ワキ詞}〽案内とは如何成者ぞ。
{シテ詞}〽是は大唐の天狗の首領善界房にて候が。御目に懸り申談ずべき子細の候て。是迄はる〃参りて候。
{ワキ詞}〽扨は承及たる善界房にてわたり候か。見ぐるしく候へ共。先某が菴室へ御入候へ。さて唯今の御出は何のためにて候ぞ。
{シテ}〽さむ候。只今まいる事余の儀にあらず。我国にをひて。いわう山青龍寺。般若台にいたる迄。少も慢心の輩をば。皆我道に誘引せずといふ事なし。まことや日本は小国なれ共神国として。仏法今にさかむなるよし承候間。すこし心に懸り是までまいりて候。同くは御心をひとつにして。自他の本意を達し給へ。
{ワキ}〽扨はやさしくもおぼしめし立候物かな。夫我国は天地開闢より此かた。先以神国たり。されば仏法今にさかむなり。まづ〃まちかき比叡山。あれこそ日本の天台山候よ。《心のごとくうかゞひ給へ 
{シテ}〽扨はいよ〃たよりあり。夫天台の仏法は。権実二教にわかち 
{ワキ}〽又密宗の奥義をつたへ
{シテ}〽顕密兼学の所なるを 
{ワキ}〽われらごときのたぐひとして 
{シテ}〽たやすくうかがひ 
{ワキ}〽給はむ事 
{同}蟷螂が斧とかや猿猴が月にあひおなじ。かくはしれどもさすが猶。我慢増上慢心の。たよりをえむと思ふにも。大聖の威力をいよ〃案じつらねたり。
{クリ地}〽《夫明王の誓約★遍〃なりといへども。其利益よそむにこえ。正しく火生三昧に入給て一切の魔軍を焚焼せり。
{サシ}〽ほかには忿怒の相をげんずといへ共
{同}《内心慈悲の御恵。凝念不動の理をあらはし。但住衆生心想之中。実有難き悲願かな 
{クセ}然りとはいへども。輪廻の道をさりやらで。魔境にしづむその歎き。思ひしらずや我ながら。過去遠々の間に。さすが見仏聞法の。其結縁の功により。三悪道を出ながら。猶も鬼畜の身をかりて。いとゞ仏敵法敵となれるかなしさよ。いま此事を歎かずは。未来やう〃をふるとても。いつか般若の智水をえて。火生三昧の焔を遁れはつべき。
{上シテ}〽世中は。夢かうつつかうつゝ共
{同}夢共いさやしら雲の。かゝる迷ひをひるがへし帰服せむとは思はずして。いよ〃我慢の旗矛の。なびきもやらでいたづらに。行者の床をうかがひて。降魔の利剱をまつこそはかなかりけれ。 
{上ロンギ}かくては時刻うつりなん。いざもろ共に立出て。比叡の山辺のしるべせん 
{シテ}〽法のためいまぞ愛宕の山の名に。頼を懸て思ひ立つ雲のかけはしうちわたり 
{地}〽我名やよそに高雄やま。東をみれば大比叡や 
{シテ}〽横河の杉の梢より 
{地}〽南につゞく如意が嶽わしのお山の。雲や霞も嵐と共に失にけり 〃  
{一セイ僧正}〽勅をうけ。我たつそまを出ながら。急ぐも同じ名にたかき。大うち山の。道ならん 
{僧正サシ}〽かくてやう〃大ひえを。おりつゝ行ばふしぎやな。あれにみえたるさがり松の 
{上歌同}梢のあらし吹しほり。〃。雲となり雨となる。山河草木震動し。天にかがやくいなびかり。大地にひゞくいかづちは。肝魂をくらまかす。こはそも何の故やらむ、〃。
{シテ上後}〽抑是は。大唐の天狗の首領。善界房とは我事也》。
{詞}あら物々しや如何に御房。今更何の観念をかなせる。《夫若作障碍即有一仏。魔境と説り。あら痛はしや。欲界の。うちに生るゝ輩は
{地}〽悟りの道や其まゝに。魔道のちまたとなりぬらん 
{上歌同}ふしぎや雲の。うちよりも。〃。邪法を唱ふる声すなり。本より魔仏。一如にして。凡聖不二なり。自性清浄天然うごきなき。是を不動と名付たり 
{僧正}〽聴我説者得大智恵。うむたらたかむまん
{上地}其時御声のしたよりも。〃。明王あらはれ出給へば。矜迦羅制多伽十二天。をの〃降魔のちからを合せて。みさきをはらつておはします 
{下シテ}〽明王諸天はさてをきぬ。 
{下同}〃。こち吹く風に。東をみれば 
{シテ}〽山王権現 
{地}〽南におとこ山。西に松の尾北野や賀茂の。山風神風吹はらへば。さしもに飛行の翅も地におちちからもつき弓の八嶋の浪の。たちさると見えしが又飛来り。さるにても。か程に妙なる仏力神力。今より後は。来るまじと。いふ声ばかりは虚空に残り。いふこゑばかり虚空にのこつて。すがたは雲路に入にけり》