元和卯月本「姨捨」
3-24 姨捨
{次第}《月の名ちかきあきなれや。〃、姨捨山を尋む。》
{ワキ詞}〽︎か様に候者は。みやこがたに住居仕る者にて候。我いまださらしなの月を見ず候ふあいだ。此秋思ひ立をばすて山へと急ぎ候。
{道行}《此ほどの。しばし旅居のかり枕。〃。又立いづる中宿の。明し暮して行程に。爰ぞ名におふ更科や。をばすて山に着きにけり、〃。》
{ワキ詞}〽︎扨も我をば捨山に来てみれば。嶺たいらかにして万里の空もへだてなく。千里にくまなき月の夜。さこそとおもひやられて候。如何様此所にやすらひ。今宵の月を詠ばやと思ひ候。
{シテ女詞}〽︎なふ〃あれなる旅人は何事を仰候ぞ。
{ワキ}〽︎さむ候、是は都のものにて候が。はじめて此所に来て候。扨々御身はいづくにすむ人ぞ。
{シテ}〽︎是は此さらしなの里に住者にてさふらふ。けふは名におふ秋のなかば。くるるゝを急ぐ月の名の。ことに照そふ天の原。隈なき四方の気色かな。いかに今宵の月の面白からむず覧。
{ワキ}〽︎《扨はさらしなの人にてましますかや。扨々いにしへをばすての。在所はいづくのほどにて候ぞ。
{女}〽をばすて山のなき跡と。問せ給ふは心得ぬ。
{下}我心なぐさめかねつさらしなや。》
{詞}をば捨山に照月をみてと。詠ぜし人の跡ならば。是にこだかき桂の木の。陰こそ昔のをばすての。其なき跡にて候へとよ。
{ワキカヽル}〽︎《扨は此木の陰にして。すて置れにし人の跡の。》
{女詞}〽︎其まま土中に埋草。かりなる世とて今はゝや
{ワキカゝル}〽︎《昔語に成し人の。なを執心はのこりけむ。
{女}〽なき跡までも何とや覧。
{ワキ}〽︎物すさまじき此原の。
{女}〽︎風も身にしむ。
{ワキ}〽︎秋のこゝろ。
{上歌同}いまとても。なぐさめかねつ更科や。〃。をばすて山の夕暮に。まつもかつらもまじる木の。みどりも残りて秋の葉の、はや色づくかひとえ山。薄霧も立わたり。風涼しく雲つきてさびしき山の。けしきかな。〃。》
{女詞}〽︎扨々旅人はいづくより何方へ御とをり候ぞ。
{ワキ詞}〽︎されば已前も申ごとく。都の者にて候ふが。さらしなの月を承及。はじめて此所に来りて候。
{女}〽︎扨は都の人にてましますかや。さあらばわらはも月と共に。あらはれ出て旅人の。夜遊をなぐさめ申べし。
{ワキ}〽︎そもや夜遊をなぐさむんとは。扨々御身は如何成人ぞ。
{女}〽︎誠はわれは更科の者。
{ワキ}〽︎《さて今は又何方に。
{女}〽︎すみかといはんは此山の。
{ワキ}〽︎名にしおひたる、
{女}〽︎をばすての。
{上歌同}それといはむもはづかしや。〃。其いにしへもすてられて。唯ひとり此山に。すむ月の名の秋ごとに執心の闇をはらさむと。今宵顕はれ出たりと。ゆふかげの木の本にかきけすやうに。失にけり、〃。
{ワキ上歌}〽︎夕かげ過る月影の。〃。はやいでそめて面白や万里の空もくまなくて。いづくの秋も隔なき心もすみて夜もすがら。三五夜中の新月のいろ。二千里の外の古人のこゝろ。
{下女後}〽︎あら面白の折からやな。荒面白のおりからや。あけば又秋のなかばも過ぬべし。こよひの月のおしきのみかは。さなきだに秋まちかねてたぐひなき。名をもち月の見しだにも。おぼえぬ程に隈もなき姨棄山の秋の雲。餘に絶ぬ心とや。むかしとだにもおもはぬぞや。
{ワキ}〽︎ふしぎやな、はや更過る月の夜に。白衣の女人あらはれ給ふは。夢かうつゝかおぼつかな。》
{女詞}〽︎夢とはなどや夕暮に。あらはれ出し老の姿。はづかしながら来りたり。
{ワキ}〽︎《何をかつゝみ給ふらむ。本よりところもをばすての。
{女}〽︎山は老女が住所の。
{ワキ}〽︎昔に帰る秋のよの、
{女}〽︎月のとも人まどゐして。
{ワキ}〽︎草をしき。
{女}〽︎花に起臥袖の露の。
{二人}さも色々の夜遊の人に。いつ馴そめてうつゝなや。
{上歌同}さかりふけたる女郎花の。〃。草衣しほたれて。むかしだにすてられし程の身をしらで。又をばすてのやまに出て。面を更科の。月にみゆるもはづかしや。よしや何事も夢の世の。中〃いはじ思はじや。思ひ草花にめで月にそみてあそばむ。
{クリ地}実や興にひかれて来り。けうつきて帰りしも。今のおりかと知られたる。今宵の空のけしきかな。
{シテサシ}〽︎然るに月の名所。何くはあれどさらしなや。
{同}をばすて山のくもりなき。一輪みてる清光のかげ。団々として海嶠をはなる。
{下シテ}〽︎しかれば諸仏の御誓ひ。
{同}何れ勝劣なけれ共超世の悲願普き影。弥陀光明に。しくはなし。
{クセ}去程に。三光西に行事は。衆生応して西方に。すゝめいれんがためとかや。月は彼如来の右の脇侍として。有縁をことに導き。おもき罪をかろむずる天上のちからをうるゆへに。大勢至とは号すとか。天冠の間に。はなのひかりかゝやき。玉の台の数々に。他方の浄土をあらはす。玉珠楼のかぜの音糸竹のしらべとり〃に。こゝろひかるゝかたもあり。はち色々に咲まじる。宝の池の辺に。たつやなみ木のはなちりて。芬芳しきりに乱れたり。
{上シテ}〽︎迦陵頻伽の類ひなき。
{同}声をたぐへてもろともに。孔雀鸚鵡の。おなじく囀る鳥のをのづから。光もかげもをしなべて。いたらぬ隈もなければ無辺光とは名づけたり。しかれども雲月の。有時はかげみち。又ある時はかげかくる。有為転変の。世中のさだめのなきをしめすなり。
{下女}〽︎昔恋しき夜遊の袖。
{上女}〽︎我心。なぐさめかねつ。さらしなや。
{上同}をばすて山にてる月をみて。〃。
{下女}〽︎月に馴。花に戯るゝ秋草の。露のまに。
{下同}露のまに。なか〃何しに顕れて。胡蝶のあそび。
{下女}〽たはふるゝ舞の袖。
{上地}〽︎かへせや返せ。
{下女}〽︎昔の秋を、
{同}思ひ出たる妄執のこゝろ。やるかたもなき。こよひの秋風。身にしみ〃と。恋しきはむかし。しのばしきは閻浮の。あきよともよと。おもひをれば。よも既にしら〃とはやあさまにもなりぬれば。われもみえずたび人もかへる跡に。
{上女}〽︎ひとり捨られて老女が。
{同}むかしこそあらめ今もまたをばすて山とぞ成にける。をばすて山とぞなりにけり。》