明暦野田本「松虫」

17-856 松虫

{ワキ詞}〽︎是は津の国あべ野のあたりに住居仕る者にて候。我阿部野の市に出て酒を売候処に。いづくとも,しらず若き男の来り酒を,のみ。帰るさには酒宴をなし候。何とやらん不審に候間。今日も来りて候は〃。如何成者ぞと名を尋ねばやと存候。
{次第立衆}〽︎《もとの秋をも松むしの。〃。音にもや友を,忍ぶらん》
{シテサシ}〽︎《秋の風,ふけ行ま〃に長月の。ありあけ寒き朝かぜに》
{同}《袖ふれつ〃く市人の。伴ひ出る道の辺の。草葉の露も深みどり。立つれ,ゆくや色〃の。簔代衣日も出て。あべの市路に出るなり。》
{下哥}《遠里ながら程近きこや,すみの江の,うらづかひ》
{上歌}《塩風も。吹や,きし野の秋の草。〃。松も,ひ〃きて興津浪。聞えて声〃友さそふ。此市人の数〃に。我も行人も,ゆく。あべ野の原は面白や。〃》
{ワキ上カ〃ル}〽︎《伝へ聞白楽天が酒功賛を作りし琴詩酒の友。今も,しられて市や形に。樽をすへ盃を,ならべて。より,くる人を待居たり。》
{詞}如何に人〃酒召れ候へ。
{シテ上カ〃ル}〽︎《我宿は菊売る市にあらねども。四方の》かどべに人さわぐと。読しも故人の心なるべし。如何に人〃面〃に。醽酒を汲てもてなし給へ。
{ワキ}〽︎《また彼人の来れるぞや》
{詞}けふはいつより酒をた〃へ。遊楽遊舞の和哥を詠じ。人の心を慰め給へ。早くな帰り給ひそとよ。
{シテ詞}〽︎なに我を早くな帰りそよと。
{ワキ詞}〽︎中〃の事暮過る共。月をも見捨て給ふなよ。
{シテ}〽︎おほせ迄もなし、何とてか。此酒友をば見捨つべき。古き詠にも花の下に。
{ワキ上カ〃ル}〽︎《帰らむ事を忘る〃は。》
{シテ上カ〃ル}〽︎《美景に,よると作りたり》
{二人上}〽︎《樽の前に醉を,す〃めては。是春の風とも,いへり》
{下同}《今は秋の風。あた〃め酒の身を,しれば。薬と,きくの花のもとに。帰らん事を忘れいざや御酒を愛せむ》
{上哥同}《縦暮る〃とも。〃。夜遊の友に馴衣の。袂に請たる月影の。移ふ花の,かほばせの。盃に,むかへば色も猶まさり草。千年の秋をも限らじや。松虫の音も,つきじ。壁生草のいつ迄も。かはらぬ友こそは,かひ,えたる市のたからなれ〃。》
{ワキ詞}〽︎如何に申候。只今の言葉の,すえに。松むしの音に友を忍ぶと承候は。いか成謂にて候べし
{ワキ}〽︎さらば御物語り候へ。
{シテ物語}〽︎むかし此阿辺野の松原を。ある人二人伴ひ通りしに。折節松むしの声面白く聞えしかば。一人の友人。彼むしの音をしたひ行しに。今一人の友。良久しくまてども帰らざりし,ほどに。心もとなく思ひ尋行き見れば。彼者草露に臥て空しくなる。しなば一所とこそ契りしに。こはそも何といひたる事ぞとて、なき悲めど甲斐ぞなき。》
{下同}《其ま〃。土中に埋れ木の人しれぬと社おもひしに。朽もせで松むしの,ねに。友を忍ぶ名の世にもれけるぞ悲しき。
{上哥同}《今も,その。友を忍びて松虫の。〃。音に,さそはれて市人の。身を,かへてなき跡の。亡霊こ〃に来りたり。恥かしや是迄なり。立すがりたる市人の。ひとかげに隠れて,あべのの方に帰りけり〃。》
{上ロンギ地}〽︎不思議や,扨は此世にも。なき影すこし残しつ〃。此ほどの友人の。なごりを,しばしとめ給へ。》
{シテ上}〽︎《折節秋の暮。松むしも,なく物を。我をやまつ声ならん》
{上地}〽︎《そも心なき虫の音の。我を,まつ声ぞとは。誠しかならぬ,ことばかな。
{シテ下}〽︎虫の音も。〃。忍ぶ友をば,まてばこそことの葉にもか〃らん》
{上地}実〃おもひ出したり。古き哥にも秋の野に》
{シテ上}〽︎《ひとま川虫の声すなり》
{上地}〽︎《我かと行て。いざ弔はんと,おぼしめすか人〃有難や是ぞ誠の友を。忍ぶぞよ松むしの音に。伴ひて帰りけり虫の音につれて帰りける。》
{上哥}《松風寒き此原の。〃。草の,かりねのことはに御法をなして夜もすがら。彼跡とふぞ有難き〃。
{後シテ上}〽︎《荒ありがたの御弔ひやな。秋霜にかるるむしの音きけば。閻浮の秋に,かへる心。なを郊原に,くち残る。魂霊是まで来りたり。嬉しく,とふらひ給ふものかな。》
{ワキ上カ〃ル}〽︎《はや夕陰も,ふかみどり。草の花色露深き。そなたを,みれば人影の。幽に見ゆるは有つる人か。》
{シテ詞}〽︎中〃なれやもとよりの。むかしの友を猶しのぶ。虫の音ともにあらはれて。手向を受る草ころもの。》
{ワキ}〽︎《浦は難波の里も近き》
{シテ}あべの市人馴〃て。》
{ワキ}〽︎《とぶらふ人も》
{シテ}〽︎《とはる〃,我も。》
{ワキ}〽︎《いにしへ今こそ》
{シテ}〽︎《かはれども》
{上哥同}《古郷に。すみしは同じ難波人。〃。蘆火たく屋も市屋形も,かわらぬ契りを,忍ぶ草の忘れえぬ友ぞかし荒。なつかしの心や。
{クリ詞}《忘れて年を経し物を。また古へに,かへる浪の。難波のことのよしあしも実へだてなき友とかや。》
{サシ}あしたに落花を踏で,あひ伴つて,いづ。》
{詞}《夕には。飛鳥に随つて一時に帰る。しかれば花鳥遊楽の瓊莚。風月の友に誘れて。春の山,辺や秋の野の草葉にすだく虫迄も。きけば,こ〃ろの。友ならずや》
{クセ}《一樹の蔭の宿りも他生の緑を聞物を。一河の流れ汲て,しるその心あさからめや。奥山の深谷のしたの菊の水。くめども。くめどもよも,つきじ。流水の盃は手先づ,さへぎれる心なり。されば廬山の古へ,こけひを,さらぬ室の戸の。その戒を破りしも。志を浅からぬ。思ひの露の玉水の[しんにゅう+景]迹を,いでし道とかや》
{上シテ}〽︎それは賢き古への。世もたけ心さえて。道ある友人の数〃。積善の余慶家〃に普く広き道とかや。今は濁世の人間ことに,つたなき我らにて。心もうつろふや菊をた〃へ竹葉の。世は皆ゑへりさらば我独り醒もせで。萬木みな紅葉せり。た〃松虫の独り寝に。友を,まち酔をなして。舞かなで遊ばむ》
{シテ下}〽︎《盃の。雪を廻らす花の袖》
{上ワカ}〽︎《おもしろや。千種にすだく。むしの,ねの》
{下地}〽︎《はたをる音の。》
{シテ下}〽︎きりはたりちやう》
{下同}《きりはたりちやう。つ〃りさせてふ蛬蝉脱。色〃の色音の中に。わきて,わが,忍ぶ松虫の声。りん〃りんりむとして。夜の声めい〃たり》すはや難波の鐘の明かたの。浅間にも成ぬべしさらばよ友人名残の袖を。招く尾花のほのかに見えし。あとたえて。草はう〃たるあしたの原に。草はう〃たりあしたのはかに。むしの音ばかりや。残るらん虫の音ばかりやのこるらむ。》