明暦野田本「土車」

13-622 土車

{次第}《夢の世なれば,おどろきて。〃。捨るや現なる覧》
{詞}か様に候者は。深草の少将がなれの果にて候。われ妻におくれ。うき世あぢきなく候程に。一子を捨かやうの姿と成て候。我世に有し時より。善光寺への,のぞみ候ひて。此程は信濃国に候が。けふも又御堂へ参らばやと思ひ候。
{シテ一セイ}〽︎《いかにあれなる旅人。善光寺への道教へてたべ。》
{詞}是に御入候は主君にて御座候が。父を失ひかなた此方を御尋ね候。是憐みてたび給へ。何語りとや。よしきおぼしめされんに付ても猶御借は有明のつれなくも御返り候物かな》
{詞}荒笑止や又御むつかり候よ。いや〃左様に心よはくむつかり候は〃。けふよりして。御供申まじく候。
{子詞}〽︎いかにめのと。今より後は泣まじいぞとよ
{シテ}〽︎荒いとおしや。捨参らせうずると申は,いつは事にて候。いづく迄も御供申。父に会せ参らせ候べし《痛はしや,いにしへは。らんよ属車に召れし御身の。名も高かりし日月も。地に遠近の土の車。引きかへしたる有様かな》《諸仏念衆生。衆生不念仏》
{下次第}《すまで世にふる土車。〃めぐるや雨の,うき雲》
{下}《すまで世に,ふる土車。〃。めぐるや雨の,うき雲》
{子サシ}〽︎《是は都のほとり深草の者にて候が。思ひの外に父を失ひ。諸国を廻り候,也》
{シテ}〽︎《悲しきかなや生死無常の世の,ならひ。一人に限りたる事はなけれども》
{下二人}《悲しみの母は空くなり。頼む父さへ,いくほどなく。思ひの家を出給へば。其行かたをも。白雪の。跡を尋て。迷ふなり。あはれや実いにしへは。花鳥酒宴に,まとはされ。春秋を送むかへし御身の。今はか様におちぶれて。かく浅ましくなりぬれば,わづかなる露の命を残さんと》
{下哥}《念仏申鼓を,うち袖をひろげ物を乞》
{上哥}《心を人の,あはれまば。〃。尋る父の行方を。教てたばせ給へと。問ばはかなきうき身ぞと。思ひながらも,うき旅を。信濃国に,きこえたる。善光寺よりも着にけり〃》
{ヲカシ}〽︎如何に是成狂人。面白う狂候へ。
{シテ}〽︎いや,くるひたうもなく候。
{ヲカシ}〽︎御身はすねたる事を申物かな。物狂なれば,くるへと申す。唯くるうて,みせ候へ。
{シテ}〽︎いや狂候ふまじ。
{ヲカシ}〽︎扨は狂ふまじきか。近比にくき事を申物かな。くるふまじきならば此如来堂には叶まじきぞ。急で出候へ。いや〃この堂ばかりは曲もなし。此国には,かなふまじ。此国ばかりは猶も,せばく候。天下に叶まじきぞ。
{シテ}〽︎何と天が,したに叶ふまじきとは思ひもよらぬ仰かな。夫天智の御宇かとよ。ちかたと云し逆臣,有しが其身も勢ひありし上。四人の鬼を,つかひしかば。責べき様もなかりしに。藤原の朝臣一首の,うたを書て。鬼の城へ,つかはす其哥に。土も木も。わが大君の国なれば。いづくか鬼の。宿と定めん》
{下地}《此哥の理に。〃。鬼も,めでて去ぬれば。千方も亡び候ひて。一天四海波を。うち治給へば国も動かぬあらがねの。土の,くるまの我らまで。道せばからぬ大君の。御影の国なるをば独せかせ給ふか》
{上}殊更当国信濃路や》
{詞}《木曽の,かけはしかけて実。頼みも,あやうからぬ法の声立て猶。諸人の憐み他のちから,もらさじ物を弥陀仏の。御影もあまねく,あはれませ給へ人〃。哀みの中にも此お仏ぞ上なき。仏は衆生を一子と,おぼしめさるれば。殊更われらが影たのみ頼む中にも弥陀は母にてましませば。父にも,あはせて。たばせ給へなまみだ阿弥陀仏》
{上同}〃。歌舞の菩薩声〃に。花のふり鼓。篳篥笙の笛和琴。声を上て,さけべども。父,共答へず,あはれとだにも,しらざれば。よしそれ迄ぞ。さ〃らも八はちをも。うち捨て,くるはじ皆うち捨て〃狂はじ》
{ワキ詞}〽︎不思議の事の候。是なる物狂をいかなる者ぞと,おもひて候へば。古里に留め置たる一子にて候。こなたなるは乳母の小次郎にて候。荒浅ましと衰へて候や。某故郷に候ひし時。常は善光寺へ参るよし申候ひつるを。おさなご〃ろに思ひ出し。是迄はる〃と下りたる事の不便さは候。頓て名乗つて悦ばせばやと,おもひ候。荒何ともなの事を思ひて候や。一度切たる恩愛の中を二度輪廻すべき事の口惜さは候。今逢見たらば終の,わかれ。今あひ見ずは,つゐの悦び。誠に三界の絆を。爰にて切と思ひなし。なむあみだ仏と,となへてさらぬやうにて行き過る〃》
{子詞}〽︎いかに乳父。〽︎御前に候
{子}〽︎今は命も惜からず。前,成川へ身を投空しくならばやと思ひ候
{シテ}〽︎実〃けなげ成事を仰られ候物哉。さらば御供申身を投候べし。偖も善光寺にては尋申べくと存候へども。今は早某も退屈仕て候。今夜は如来の御前にて。御心静に御念仏を御申候べし。明なば御待申身をなげうずるにて候
{上クリ}〽︎《夫生死輪廻の根元を尋ぬるに。有相執着の妄念より,おこれり》
{サシ}〽︎《をのれと心に迷つて流転無窮にして。車の庭に廻るが,ごとし。正身不定にしては鳥の,はやしに,あそぶに,ことならず。
{シテ上}〽︎《悲しきかなや我ら今。人界に生を受るとは云ながら》
{詞}《見仏聞法の結縁をもなさ〃れば。未来の楽しみも。いか〃と思ひ,しられたり》
{クセ}《凡弥陀の悲願には。破戒闡提をも,もらさず。一念十念の間に,彼国に,むかへ,とるべしと五劫思惟の本願なり》
{上}《さればにや,その心》
{詞}《極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽と,とかせ給へる。此理りに任せつ〃我らを,たすけおはしませ〃》
{シテ詞}〽︎思ひ切たる事なれば。二人は手に手を取組て。川のほとりに立出る》
{ワキ詞}〽︎おもひ,きりたる事なれ共。又引かへす心ちして。門前さして追て行。
{二人}〽︎《すははや川に近付ぬと。二人は西にうち,むかひ。既,うき身を,なげんとす》
{ワキ詞}〽︎あふ暫とて引留る。
{二人}〽︎《有て,うければ捨る身を,と〃め給ふは中〃に。われらが為には,うき人なり》
{ワキ詞}〽︎今は何をか,つ〃むべき。是こそ父の少将よ。
{二人}〽︎《さらに誠と,しら雪の。ふるさとの名は》
{ワキ}〽︎《ふか草の》
{上同}葉すゑの露の消えもせで。命のあれば又父に逢こそ,うれしかりけれ。あふ事の。もし夢ならばいかにせん。現に成行ばまたもや父に,わかれなむ》
{上キリ}《ともに。命のながらへて。又廻あふ小車の。別し時の,うき思ひ。今あふ事の,うれしさを。何にたとへん。かたも,なぎさの波よる昼こひし,わが父にあふこそ嬉しかりけれ。〃》