明暦野田本「綱」

10-501 綱

{次第}《治まる花の都とて。〱風も音せぬ春べかな》
{頼光詞}〽︎抑是は源の頼光とはわが事なり。扨も丹州大江山の鬼神を随へしより,このかた。定光季武綱公時。か様の人々に朝暮参会仕候。此一両実は晴間も見えぬ春雨にて候ほどに。彼面々を召あつめ。酒を進めばやと存候。誰かある。此間参会のかた〱に御出あれと申候へ
{サシ}《有難や四海の安危は掌のうちに照し。百王の理乱は心の,中に,かけたり》
{上哥}《曇りなき君のみかげは久かたの。〱。空も長閑き春雨の。をとも静に都路の。なゝつの道も末すぐに。八嶋の波も,をとせぬ九重の春ぞ。久しき〱》
{頼詞}〽︎いかに面々。誠に興も候はねども。此春雨の昨日今日。晴間も見えぬつれ〱に。けふも暮ぬとつげわたる。声も,さびしき入相の,かね》
{上哥同}《つく〱と。春の,ながめの,さびしきは。〱。忍ぶにつたふ。軒の玉水をとすごく。ひとりながむる,ゆふまぐれ。伴ひ,かたらふ諸人の。御酒をすゝめて盃を。とり〱なれや梓弓。やたけ心の,ひとつなる。つはものゝ交り頼みある中の酒宴かな》
{クセ}《おもふ心のそこいなく。唯うちとけてつれ〱と。降くらしたる,よひの雨。是ぞ,あま夜の物がたり。
{上頼}〽︎《品〱言葉の花もさき。匂ひも深き紅に。おもてもめでて人心。へだてぬ中の,たはぶれは。面白や諸共に。ちかく居よりて語らん》
{ツナ}〽︎さむ候をの〱参りて候。御物がたり候へ
{頼}〽︎如何に面々。さびしき夜にて候へ共。近うよりて御物語候へ。扨此ころは都にめづらしき事はこぬか
{ホウ}〽︎さん候此比都に不思議成事を申候。九条の羅生門に鬼神のすむで。暮れば人の,とをらぬと社申候へ。
{頼}〽︎不思議なる事にて社候へ〽︎それは誠に候か
{ホウ}〽︎左様に承及て候
{ツナ}〽︎いかに保正に申候。筋なき事な御申候ひそ。それをいかにと申に。土も木も我大君の国なれば。いづくか鬼の宿と,さだめむと聞時は。流石に羅生門は都の南門すらばや。縦鬼神のすめばとて住せをかるべきが。かゝる不思議成事を御物語候物かな
{ホウ}〽︎扨は御前にて仇を申と思召候か。此事都に隠なれば申なり。誠に不審に思召さば。今夜にても彼羅生門へ行て御覧候へ
{ツナ}〽︎か様に承候は。某罷出ましき者と思召れ候な是は御前にてあらそふにてはなけれ共。誠偽は今夜のうちに其勝劣を見せ申さんと。さもあらけなく申ければ》
{上地}〽︎《満座のともがら一同に。是は,むやくとさゝへけり》
{ツナ}〽︎いや保正に対して遺恨は,なけれども。一つは君の御為なれば。《しるしを,たべと申けり》
{頼}〽︎其時頼光綱にむかひ。実〱汝が申ごとく。旦うは君の御為なれば。是をしるしを立てゝ帰るべしと。《札を取出たびければ》
{上哥}《綱はしるしを給はりて。〱。御前を立て出けるが。たち帰り,かた々は。人の,こゝろを陸奥の。安達が,はらにあらねども。こもれる,おにを随へずは。ふたたび又人に。面を,むくる事あらじ。是迄なりといふしほの。引はかへさじ武士の。やたけ心ぞ,おそろしき〱。
{ツナカゝル}〽︎扨も渡辺の綱は。たゞ仮初のことばのあらそひにより。鬼神の姿は見むために。武具取て肩に,かけ。同毛の甲の緒をしめ。重代の太刀を,はき》
{上地}〽︎たけなる馬に,うち,のりて。舎人をもつれず唯一騎。宿所を出て二条大宮を。南がしらに,あゆませり》
{上同}《春雨の。をとも頻りに,ふくる夜の。〱。鐘も聞ゆる暁に。東寺の前をうち過て。九条おもてに打て出で。羅生門を見渡せば。物すさまじく雨落て。俄に吹来る風の音に。齣も,すゝまず。たかいなゝきし。身ぶるひして社立たりけれ。《其時馬を乗はなし。〱。羅生門の石壇にあがり。験の札を取出し。壇上に立をき帰らんとするに。うしろより甲の。しころをつかむで引とめければ。すはや鬼神と太刀抜待て。きらんとするに。取たる甲の緒を引ちぎつて。おぼえず壇より飛おりたり。かくて鬼神は怒をなして。〱。持たる甲をかつぱと,なげすてそのたけ,こうもむの軒にひとしく両眼月日の,ごとくにて。綱をにらんで立つたりけり》
{ツナ下}〽︎綱は,さはがず太刀さしかざし。〱。汝しらずや王地を,おかす。其天罰は。遁るまじとてかゝりければ。鉄杖を振上ゑいやと,うつを。飛ちがひちやうと,きる。きられて,くみつくを。はらふ剣にうで打おとされ。ひるむと,みえしがわきつぢにのぼり。虚空をさして,あがりけるを。したひゆけども黒雲おほひ。時節を待て。またとるべしと。よばはる声も。幽に聞ゆる鬼神よりも恐ろしかりし。綱は名をこそ。あげにけれ》