三百番本「吉野天人」

10-3　吉野天人

{次第}《花の雲路をしるべにて。〃、芳野々おくをたづねん》、
{ワキ詞}〽是は都方に住居する者にて候。扨も我春に成候へば。爰かしこの花を一見仕候。中にも千本の桜を年々にながめ候。此千本の桜は。みよしのゝ種とりしはなとうけ給はりをよび候間。若き人々をともなひ。此度和州に下向仕候、
{道行}《此春は、殊に桜の花心。〃。色香にそみてふかみどり。糸よりかけて青柳の、露もみだるゝ春雨の。よるふりけるか花いろの。朝じめりしてけしきたつ。よしのゝ山に着にけり、〃》、
{詞}急候ほどに、是ははやよしのゝ山につきて候。御覧候へ、嶺も尾上も皆花にて候。なを〃おくふかく分入ばやと存候、
{シテ女詞}〽なふ〃あれなる人々は何事を仰候ぞ、
{ワキ}〽さん候、是はみやこの者にて候が。此よし野の花をうけたまりをよび。はじめて此山に分入て候。ふしぎやな、やごとなき御すがたなるが。此山中に入せ給ふは。そもいかなる人にてわたり候ぞ、
{シテ}〽是はこのあたりにすむものなるが。春たつ山に日を送り。さながら花をともとして。山野にくらすばかりなり、
{ワキ}〽げに〃花のとも人は。たしやうの縁と云ながら。われらも同じそのこゝろ、
{女カヽル}〽《ところもやまぢの、
{ワキ}〽ともなれや、
{上同}見もせぬ人やはなのとも、〃。しるもしらぬも花の陰に。あひやどりしてもろ人の。いつしかなれて花ごろもの。袖ふれて木の本に。立寄いざやながめん。げにやはなのもとに。かへらん事をわするゝは。美景によりて花ごゝろ。なれ〃そめてながめん、いざなれ〃てながめん》、
{ワキ詞}〽いかに申べき事の候。かやうに家路をわすれはなをながめたまふ事。いよ〃ふしむにこそ候へ、
{シテ}〽げに御ふしむは御ことはり。今は何をかつゝむべき。まことはわれは上界の天人なるが。此はなのこずゑを宿りとして。唯今こゝに来りたり。今夜はこゝにたびゐして。信心をいたしたまふならば。其いにしへの五節の舞。其小忌衣はそでをかへし。月の夜遊に見せ申さん、
{上カヽル}《暫こゝにまちたまへと、
{上同}夕ばへにほふ花のかげ。〃。月の夜遊をまち給へ。乙女のすがたあらはして。かならずこゝにきたらんと、かれう頻がの声斗。雲に残て失にけり、〃、
{上カヽル}〽ふしぎやこくうに音楽聞え。いきやうくんじて花ふれり。是おさまれる。御代とかや、
{上歌}いひもあへねば雲の上。〃。びはことわごんせうひちりき。征鼓鞨鼓や笛竹の。声澄渡る春風の、天津乙女のまのあたり。天くだるこそふしぎなれ、
{キリ上同}天女は幾度君が代を。〃。撫し巌もつきぬや、春の花の木末に舞遊び。飛上り飛くだる。実もうへなき君の恵、治る国の天津風。雲の通路吹閉るや。をとめの姿。とゞまる春の。霞も棚引三吉野々。芳野々山桜、移ふと見しもか、また咲花の。雲にのり〃て、行ゑもしらずぞなりにける》