五百番本「義興」

02-2　義興

{次第ワキ｝〽《憂世の夢の覚やらぬ、〃。身の行末ぞはかなき》　
{ワキ詞｝〽是は諸国一見の僧にて候。我此程は武蔵の国に候ひて。事旧たる寺社拝みめぐりて候。又是より鎌倉一見と心ざし候　
{道行｝《紫の所縁ある野を分暮し。〃、墨の衣手露けきにあはれ数そふ旅枕夢もむすばぬ草筵。おもひをのぶる方もなく名にのみ聞し矢口なる渡りにはやく着にけり〃》
{詞｝あら嬉しや渡りを越て候。是によし有気なる宮居拝まれさせ給ふ。人を待て謂を尋ねばやと思ひ候　
{サシ｝〽《昨日と過けふと暮しつ明日はまた。斯こそあらめ何迄も。神の恵みをあふぐなり。いざ〃歩みを運びつゝ。神に仕への御注連縄榊葉に祓とり添て奉る。拂い給へ清めて給ふ
{下哥｝頼む誓ひは数々の神に祈りをかけまくも　
{上哥｝かたじけなしや是とても。〃。只浅からぬ心もて何うたがひの有べきや。実神徳はよも尽じ絶せぬぞ手向成べしや猶々祓を捧む〃》　
{ワキ｝〽いかに是成人に尋申べき事の候　
{シテ｝〽此方の事にて候か何事にて候ぞ
{ワキ｝〽只今白木綿祓を捧られ候。御神は如何成神にて御座候ぞ
{シテ｝〽さん候、此社は新田左兵衛義興を神と崇め申候。往昔管領足利基氏と畠山道誓心を合せ。竹澤を頼み。義興の方へ降人に出し。種々の計略をめぐらし。此渡りにて義興は討れ給ふ。されば其灵様々の奇瑞をなし給ふにより。此所に社を建新田大明神と崇め申候　
{下｝《か様に申せば我ながら。余所にはあらぬ泡の。草の陰のゝ露と消しを懺悔のために来りたり現とな思ひ給ひそとよ　
{上同｝実や思へば何事も。〃、みな夢の有様を。語るもよしな義興がなき跡とひてたび給へ。疑はせ給ふなと。いふ聲も幽かに立隠れつゝ失にけり》
{ワキ｝〽扨は義興の幽魂假に顕れ。我に詞をかはしけるぞや　
{上｝《猶も姿を見るやとて
{上哥｝夕べの空の草枕、〃。露を片敷夜と共に。此御経を読誦する、〃
{後シテ上｝〽落花枝に帰らずといふに。猶執心の魂魄の。妄執の心は晴やらず。我と此身を苦しむる瞋恚の程社はかなけれ　
{ワキ上｝〽不思儀やなはや深更に成や覧と。夜の燈幽かなる。光の内に人影の。甲冑を帯し見え給ふは。義興にてぞましますらん》　
{シテ｝〽はやくも御覧じ給ふ物哉。御約束をたがへじと。重て姿を顕はし衣の　
{上｝《猶妄執の雲霧を晴してたばせ給へとよ
{ワキ上｝〽愚かやな心がらこそ迷ひの雲霧。払ばなどか真如の月の　
{シテ上｝〽曇りはあらじ夜半の空の　
{上同｝影清き教へもしるき法の道。〃。迷はぬは心ならまじと。受る身ながらまた爰に。生死の海を越やらで執心のふかき世語りを懺悔にいざや申さん〃　
{クリ地上｝実や龍門厚（ママ）上にかばねをさらすといへども武将誉れの名をば埋まず
{サシ上｝〽思ひぞ出る閻浮の有様。
{上同｝月日もゆけど妄執の。心の闇の晴やらぬを。慚愧懺悔にあらはして。心の水のにごりをすまさん　
{クセ下｝偖も道誓は。竹澤に申付。義興を謀べしと有しかば。我に好みを因みつゝ。様々成し謀事。運の尽ぬるはかなさは打解たりし其気色。よも二心有まじとおもふもわりなかりしに　
{シテ上｝〽竹沢と江戸兄弟心の儘にたばかり。忍びやかに鎌倉へ。我を伴なふ運の尽ぬるはかなさは。矢口の渡りの舟場に。術をかまへ河中にて。頓て舟をぞ沈めける。左右の川の邊りには。矢尻を揃へ扣へつゝ。相図を定め責しかば。遁れん方はなかりけり　
{シテ上｝〽荒忘れがたの執心やな》
{カケリ｝
{シテ詞｝〽あら絶がたき修羅の苦患や中にも井の弾正土肥南瀬市川は
{上｝《手と手を取て水底をくゞり。向ひの岸に打上て　
{上同｝敵陣に破て入。〃。日本一の不道人に。たばかられぬる口惜さよ。七生までも恨みをなさんと大にいかり。少時が程こそ戦しが
{シテ下｝〽運つき弓の力も弱り　
{下同｝〃、よはり行て。手の下に討れし。其忘念の胸の焔に身を焦すをさと人あはれみ我霊を。一社と崇め有節に祭るといへども妄執の雲霧の五衰三熱深かりつるを。今御僧に逢奉り懺悔に晴る胸の煙〃は消々とかげろふ姿はうせにけり》