三百番本「范蠡」

05-3笵蠡

{ハンレヒ同}抑是は越王勾践の臣下范蠡と申者にて候。扨も我君呉王夫差と。たび〃たゝかひ打まけ給ひ。会稽山に年月を送り候ひしが。此度合戦に打勝。会稽の恥をすゝぎて候。あまつさへ西施をも取かへし申て候。しかれ共西施を我君に近付奉り給ひて候はゞ。定て政をこたり給ふべし。ことさら勾践の御心中推量申子細共候間。西施を御供申。五湖へうつし申さばやと存候。いかに西施に申べき事の候
{セイシ}〽何事にて候ぞ、
{ハン}〽五湖へ御供申御心をもなぐさめ申さうずると存候
{セイシ}〽何と五湖へつれてゆかむとや。扨は我を五湖へしづめんはかり事候か
{ハン}〽いや〃思ひもよらぬ事を仰られ候物かな。五湖に色々の面白き嶋々浦々の候程に。御覧ぜられ候て御心をなぐさみおはしませと、
{カヽル}かさねて申上ければ、
{セイ}〽西施は笵蠡が言葉にしたがひ、
{上同}心もとけぬうす氷。〃の。あやうき浪の上。おぼつかなくぞおぼゆる。たま〃我国に立帰り。都の花をながめんと。思ふ心もいたづらに。うき旅におもむく我身のはてぞいかならむ
{上同}夫過去久遠劫よりこのかた。三界に流転して。未来永々の今迄もくるしびの科かぎりなし、
{サシ}されば五戒の其うちにも。邪婬戒をもつぱらとし。仏もいましめ給ふなり。みづから愛河の浪ふかき。ながれのをんなの色かへぬ。傾国の名むなしからず、
{下クセ}あさからぬ涙の川のすゑとをき。其らいしやうを尋ぬるに呉王色にめで給ひ后宮をあつめ給へ共。心にかなふ色もなく年月を送り給ひしに。我身いかなるえにしあれば。叡慮にかなひたてまつり、
{上}〽恋慕の御なさけあさからず嬋娟とある秋の月狂雲ねため共こうゑんたる春の花風是をあらはして。比翼連理の契りも。はやかれ〃゛の身となりて。昔を忍ぶ我心。思ひいづるも。はてしなき袖の涙かな》、
{セイ}〽いかに笵蠡、
{ハン}〽何事にて候ぞ、
{セイ}〽みづからに少のいとまをたび候へ。うらさんの御神は氏神にて候程に。参らばやと思ひ候
{ハン}〽夫こそ安き程の御事にて候へ。さらば某御供申候べし。それより御舟にのせ申さうずるにて候。こなたへ御入候へ。やう〃急候程に。是ははやうらさん日りん権現にて御座候。能御祈念候へ。とても氏神にて御座候はゞ。御祈祷にそと法楽の舞を御舞候へかし、
{セイ}〽何と法楽の舞をまへとかやさらば行末のいのりに。はづかしながら舞をまひ候べし、
{上}《昔にかはる舞の袖。神にもかこつ。心かな、
{マヒ}、〽山々の。花は昔の。春なれど
{下同}〽色香おとろふる。わが姿かな》、
{ハン}〽よき追手の吹きたりて候急ぎ御舟にめされ候へ、
{ハン}〽あらふしぎや今迄は追手とおぼしかりし風の。舟に向ひてあらく吹。大山のごとくなる浪のたち来て候。是たゞ事にあらず候。いや〃思ひ出したり。西施を呉王につかはし申。こと〃゛くほろぼし奉り吾子音をもうしなひし。其悪霊の浪となりたるとおぼゆる也。
{カヽル}《あら物々し何程の事の有べきぞと。たからかにこそのゝしりけれ、
{太コ}〽魂はめいくはうに帰し。魄はせんに帰り抑是は。呉王の臣下吾子音が死霊なり》。
{詞}いかに笵蠡たしかに聞。西施を呉王につかはしこと〃゛くほろぼし奉り。我もうしなひし其うらみ。
{カヽル}《唯今。むくひを見すべきぞと、
{上同}夕浪あらく立さはぎ。夕浪あらく立さはぐ中に
{上}〽吾子音が悪霊鬼神と成て、
{同}ほ□をよこたへ笵蠡が舟に。立向ふありさまあたりをはらつて見えたりけり
{下}〽笵蠡是にもおどろかず、
{同}〃。打物ぬいて。かゝらんとすれ共海上心にまかせざれば。神力仏力をたのまんとて。がつしやうしつゝ
{上ノラズ}〽南方補陀落世界の教主。念彼観音力。波浪不能没、
{上同}ふしぎや俄にうらさんの。〃。草木もしんどうしまのあたりなる。日輪権現光明かくやくとあらはれ給ふふんぬの姿はおそろしや、
{下}〽吾子音がをんりやう是を見て。〃。さすがに名を得し軍兵なれば。神にもおそれず悪念をおこして。又舟に取つきくつがへさんとせし処を。其時権現御つるぎをふりあげ切給へば。悪霊次第に通力をうしなひはるかの沖に。にげさり行を。権現をつかけかうふくし給へば。あをうなばらに。立帰る波の。青うなばらの浪と成て吾子音が姿はうせにけり》