五百番本「野中清水」

11-3野中清水

{ワキ詞}〽か様に候者は。播州藤江に住居仕る者にて候。扨も某が妻去子細候程に暇をとらせばやと存候。いかに妻の渡り候か、
{シテ}〽何事にて候ぞ、
{ワキ}〽近比面目もなき申事にて候得共。少心に懸る事の候程に。今日よりして何方へも出られ候へ、
{シテ}〽是は思ひもよらぬ事を承候。扨はお暇は給り候べきか
{ワキ}〽中々の事とく〃出られ候へ、
{シテ}〽《実や何事も偽りの世と云ながら。二世と兼たる言葉の末。云かへさるゝ葛の葉の。恨もいかで尽ぬべき、
{下歌同}とは思へ共別路の跡に名残の我心、
{上歌同}乱れみだるゝ黒髪の。〃。むすぼふれたるあだ人を恨みながらも立出て。つれなきながら古里へ。たどり行社悲しけれ、〃》、
{中入}
{ワキ}〽妻にて候者に暇をとらせて候えば。存の外愁歎致候。何とやらん心元なふ候程に。ひそかに跡より行事の様を見ばやと存候、
{後シテ一セイ}〽《泪川。せきとめて見ん袂より。くち果なまし憂身かな、
{サシ}実や蜘の家にあれたる駒はつなぐ共。頼むまじきは人心と。云しは今ぞ白雲の。かゝる姿をいかにして。父母にまみえ申べき、
{下歌同}憂世を今ぞ捨草の昔の色は替り行人の心は頼まじ、
{下クセ}哀実いにしへは。翠帷紅閨に枕をならべし鴛鴦の。ふすまの下に年を経し。二葉の松の千代かけて。替らじと社契りしに。今は別路の泪や袖に時雨る覧。蔦の細道分行ばいとゞ心もみだるゝ。二見の浦も名のみして独詠る身の程を
{上シテ}〽誰か哀と夕暮の。
{同}雲の上成星合の。稀に逢夜の契りさへ我身に今は泪川の。渕は瀬に替り行。うしや所も妹背山の名を聞も恨めしく。急ば爰ぞ印南野のとある流れに着にけり、〃》、
{シテ}〽是は早印南野にて有げに候。思ひ出たり我昔藤江の卿に誘れしとき。此原を通りしは。四年（セ）の夏の比成しが。是成清水冷やかなりしを手に結び、
{下}《夏の日も涼しかりけり岩間より》
{詞}とりくる清水結ぶ袂はと。古（ル）事を思ひ出て。藤江に行てあたへに、
{上}《かはる心は我ながら。恥かしや恥かしやな。藤江とは藤江とは。長き契りの。名のみして、
{下シテ}〽今はかれ行。藤のうら葉の、
{下同}恨しや。〃、存らへて何と有明の月諸共に西へ行んと。清水の流れの下に望みて身をなげんと見てあれば清水のならひに夏こそ増れ。冬は水もぬるみて溜り江もあらばこそ。あきれたゝずむ所へ。我こそ妻よ今は早。本のごとくに契らんといふにも泪せきあへず、〃》
{ワキ}〽今は恨もあらばこそ。とく〃帰り給ふべし、
{シテ}〽扨は嬉しや立帰り。
{上}《二度ちぎりを結ぶべきか寔に今の有様を。古き歌にもかくばかり。尋てもかひなかりしや印南野の、
{シテ上}〽野中の清水心浅しや、
{ワキ上}〽又有哥に古への
{シテ上}〽野中の清水ぬるけれど。本の心を
{ワキ}〽知る人ぞくむと、
{上同}よみしも。今の有様の契りむすぶの哥の道、
{下キリ同}斯て伴ひ立帰。〃。かたらふ中の妹背山二葉の松も高砂の相生の契り成けり実たのもしき二世の縁すゑこそ久しかりけれ、〃》