四百番本「虎送」

15-1　虎送

{シテ一セイ｝《したはるゝ心は遠くをくる身の。ゆくゑほどなき名残かな　
{サシ｝あらおもしろの折からや。ころは卯月の末つかた。くれにし春の山ざくら。青葉にうつる木ずゑより。おもがはりしてさくはなの。わかむらさきの藤波に。卯のはな山は面白や　
{下哥｝山時鳥音づるゝそなたの空をながむれば
{上哥｝雲井にも名をやあげましふじのねの。〃。すそのゝみかりおりあれば。なにかをしかの命にも同じ心は人しれぬ。思ひの煙別ゆく。道をしたへばあづま野も。末程もなき名残かな。〃　
{下哥｝伊豆の海おきの小嶋に波のよる
{上ロンギ地｝〽見えてこがるゝ海士小船。よそもうき世の心かな　
{シテ上｝〽駒なづむあしがら山を越行ば。関とは聞どとめもせぬ我わかれ路ぞうらみなる　
{上地｝〽恨は末もとをらねど。箱根路なれば海山の　
{シテ｝〽木末をこゆる波の音　
{上地｝〽さながらすゑの　
{シテ｝〽松山の
{上地｝契りのいろやらん袖のなみだも大いその。宿の梢をゆく〃も。たえ〃゛見えて猶遠き。山ひこ山に着にけり〃》　
{シテ詞｝〽はや大磯も程ちかくなり候ほどに。某は是より罷かへり候べし。御名残おしうこそ候へ　
{トラ詞｝〽仰のごとく此度ふじのまきがりの事萬何事に付ても御こゝろもとなくこそ候へ。
{下カヽル｝《あはれ女の身にて候はざらむには。野のすゑ山のおくまでも。などか御供申さざらんと。今さらうらめしうこそ候へ》
{シテ詞｝〽実々嬉しき仰かな。すゑは目出度又こそ御迎に参候はんずれさりながら。
{上カヽル｝《是やかぎりとゆふかほの　
{トラ｝〽たそかれ時のそらめやらん　
{シテ｝〽おもひ内にある時は　
{上哥同｝余所の見るめもたちばなの。いろにぞうつる袖の香の。我をむかしの人ならば。恨と夕ぐれの。今をわすれぬ形見ぞと面影ばかり身にそへて。たがひに帰りかね、あきれたゝずむばかりなり　
{クセ｝せいし心ならず。ごわうのためにをくられここくにうつる昭君の。おもひしむせつに。あらぬせかいひの心まで。おもはぬ事はよもあらじ　
{上｝つら〃此心。思へば夢の帰るさの。あしたには雲となり夕には雨とふる。其とし月もいたづらに。只一時の夢の世とおどろかぬこそおろかなれ〃》　
{ワキ詞｝〽これは曽我の五郎時宗にて候。扨も兄にて候すけなりは。大磯のとら御前ををくると申て山ひこ山に有由申候間。只今酒を持せ跡をおひて罷出候、いかに申候。何のため此所には御座候ぞ　
{シテ詞｝〽さん候それがしはちと物詣のため是迄罷出て候よ　
{ワキ｝〽いや〃左様には承候へども。
{上カヽル｝《われにや人の御心　
{上同｝かけこはありと箱根山。〃。ふた心なくおぼしめさば。われも又このまゝにておとも申候べし。よし大磯の見るめなりと肴もとめ参りたりさけをひとつきこしめされよ　
{上クリ｝げにやなさけの道はこゝろなき。草木みないろかにそみ。花鳥風月の。おりをなせり　
{サシ｝いはんや人間の身として。などそのなさけなからざらん。あめつちひらけしはじめより。陰陽の道そなはりて。海山川のながれまでも。いもせのみちのこゝろより。なさけをみする。ことはり也　
{クセ下｝此ゆふせいの心もし。あまねき時はじひのしん佛も同じ心とか。仁義礼智信の。五常にもまつこの。信心をもつてもとゝせり。これみなかうていのあはれをおもふこゝろなり。然るにわれらいかなれば父をいとこにうたせつゝ。おもひのつゆのきえぬ間に。あはれ〃とあけくれ瞋恚のほのほ身をこがす。おもへばこゝろこそのがれぬ敵なりけれ　
{上｝よしやおもはじ何事も。是ぞうき世の思ひでに。いつか千とせを我もふる。山路のつゆのきくの水。ながれにひかるゝ盃の。かげはくるゝに猶みち。琴詩酒の友もこれなれや。たゝ三人へだてなくいざやあそばむ　
{シテ上｝〽花になれ。もみぢをかざし。月にめで　
{上地｝〽雪をめぐらす。たもとかな　
{上地｝高きやに〃のぼりて見れば。煙立也にぎあふ民の鎌倉山や。君がよはひは万歳かめがへつるが岡べの松にこもる。契りの色こそ久しけれ》