五百番本「多手利」

10-4多手利

{ワキ}〽是は肥後国岩戸と申所に。居住仕る僧にて候。扨も今宵不思儀成御霊夢を蒙りて候。此国の傍に〓（U2B554）の多手利と云者。家貧しくて老たる母を。育む事他に越たり。仏憐み給ひけるにや。藁苞苴を渠に与へよとの御霊夢にて候。不思儀成物にて候へ共。御夢想に任せ。今にも来候はゞ。渡さばやと思ひ候、
{シテ次第}〽《心の月は曇らねど。〃。浮雲いかに覆ふらん》、
{詞}是は此国の傍に住。〓（U2B554）の多手利と申者にて候。我独の老母あり。此程は心ちなやましく御入候程に。岩戸の観世音へ日参仕候、
{上歌}《心だに実の道に叶ひなば。〃。祈らずとても。神や守らん我ながら真如の月は曇じを。知らで程経し人ごゝろ。直に導く芦原や岩戸に早く着にけり、〃》、
{ワキ}〽いかにあれなるは〓（U2B554）の多手利にてましますか、
{シテ}〽不思義やな我を多手利とは。何とてしらせ給ひけるぞや。
{下}《荒浅ましや我姿。人に知られて恥かしや》、
{ワキ}〽喃々是は観世音の法師成が。今夜御身の上をあらたに霊夢を蒙りたり。此藁づとを得させよと也。是々寄て見給へとよ、
{シテ上}〽是は不思義の御事哉と立寄みれば。実誠夢に見たりし藁づとにこがねのたとへ是成ぞや、
{ワキ}〽此わらづとにて身の上にも思ひあひたる事有や、
{シテ詞}〽いや毎日歩みは運べども何の望みも掛ざりし、
{上}只一人の母上の息災なれと祈りし也、
{ワキ上}〽兎角は仏のあたへなれととりて帰らせ給ふべし、
{シテ上}〽荒有難やと取上見れば、
{ワキ上}〽実不思儀也、
{（シテ）上}〽藁づとに、
{上同}しんはしやうこん是誠。〃。人の目にこそ賤しけれ。仏の誓ひ目下是ぞ不思義の例なる、〃、
{クリ同}夫諸仏の奇瑞様々成といへども。濁世の衆生我等ごとき。いかで其故知らざるべき、
{サシ上}〽然るに此観世音を信じ。
{上同}日夜朝暮におこたらず。彼御経を誦読せしに、
{シテ下}〽只老衰の母を悲しみ。
{下同}あさなゆふなの起うからぬ事。是のみ仏に祈りしに。かたじけなしや一心に憑みをかくる其念力。争か通らざるべき、
{下クセ}晋の孟宗は。老たる母を育みしに。時ならぬ寒天に。笋を好みしに願ひ空しくならん事。是不孝とや成べきと。降つむ雪を掻分て。竹の林に入にけり肌うすければ寒風も。いとゞ身にしみ〃゛と泪ながらも尋ぬれば、
{シテ上}〽孝心を諸天も納受有しにや。
{同}寒風俄に霧はれて。雪を戴く笋の目前に生出母の願を叶へたり。我も仏に念力を。かけて頼まば願ひを叶へ給へと明暮に。歩みを運ぶ芦原や。帰て仕へんいさや帰りて仕へん、
{上ロンギ同}実有難き誓ひかな。末世といへど仏身の誓ひは今も妙なれや、
{シテ上}〽大慈大悲の誓願は。枯たる木にも花咲。
{同}御法を得るや極楽の光りも四方に妙なれば、
{シテ}〽物うきしやばのありさまを。
{同上}うらみん事もおろか也只彼国を願ふべし。
{下キリ}斯て多手利は其儘に。〃。彼はらづとをとり持て。家に帰れば栄へ来て。とれど尽せぬ宝を得。富貴の家と成にけり。実有がたき孝行の。威徳ぞあらた成ける、〃》