三百番本「大木」
04-5大木
{ワキ詞}抑是は長門国あぶの郡。観音寺の住僧にて候。当寺の本尊は千手鎮守は権現にて御座候。当年本堂のみつくりに相当て候間。杣共を申付。用木をとらせ候本堂のむな木に成べき木。北谷の大杉ならではなく候程に。此木を申付なをさばやと存候、
{一セイ杣}〽《春の風は空に庭前の木をきり。夜の雨ひそかに。石上の苔をやうがつらん、
{サシ}〽夫やうしゆん時来て。緑の空も長閑にて。めぐみをえたる草木までも。色めく四方の春の山。風長閑なるけしきかな、
{上歌}空色に梢も青き山松の。〃。陰もうつろふ谷ふかみ。杣木のねりぞながき日も猶いそがはし行末の。霞と共に立まよふ。山路はるけき朝かな〃》、
{シテ詞}〽なふ〃杣人達は何の為に此山辺へは御入候ぞ、
{杣詞}〽さん候是はあぶの寺本堂の。御作の用木をとらん為の杣入候よ
{シテ}〽有難の杣入や。草木国土しつかい成仏と聞時は。我等ごときの者迄も。
{上カヽル}《皆法力にひかれん事。有難かりける時節かな》、
{ソマ}〽ふしぎやな其身はいやしき山賤なるが。心の有こそやさしけれ、
{シテ}〽いや心の有なきは。いやしき身にもよるべからず。殊更此あぶの山より引杣木。遠きもろこし人までも。心を引と聞物を、
{ソマ}〽そもあぶの山より引杣木。もろこし迄もきこゆるとは、
{カヽル}《何といひたる事やらん
{シテ下カヽル}〽長門なるあぶの郡の杣坂は唐土人もすさみざりけりと、
{上同}言の葉に心もひかるゝ杣坂の。〃。長門の国やあぶの山の。山賤の身なればとてさないやしませ給ひそ。げにや神代より。心のたねは今迄もつきせぬ和歌のみちとかや〃》、
{シテ詞}〽如何に杣人扨何れの木をめされ候ぞ、
{ソマ}〽本堂のむな木に成べき大木。北谷の大杉ならではなく候程に。此木をなをさうずるにて候、
{シテ詞}〽是はいつの杣入にも残されて候間。思ひもよらぬ事にて候、
{ソマ}〽それはさる事にて候へ共。余のことに此木をなをし候はゞこそ。本堂のむな木に成べき木。此杉より外はなく候程にきらでは叶候まじ、
{シテ}〽誠に此木をきり給はゞ。忽うらみをなすべきなり、
{杣}〽そも心なき草木の。何のうらみをなすべきぞ、
{上シテ}〽《夫草木心なしとはのたまへ共。四季折〃の時をえて、
{上同}花葉しやうずる事目前たり、
{サシ}〽其うへ杉は諸木にすぐれて。其品々のとくを得たり、
{上同}すぐなる代々のめぐみにも。杉の木だちをたぐへつゝ。所々にかはらぬ神木として。しらゆふかゝる。木末とかや、
{下曲}杣人はみや木引らし足曳の。山のやまびこよびとよむなりと聞も今のおりから。思ひしれ共数ならで。世にふる三輪の杣川は。しづむなげきをしる人も。なしとながめしは大和路や三輪の川浪の名によれり、
{上}〽其外杉たてる名所の。数はいかでか白雲の。稲荷平野も程近き。横川の山陰すゑつゞく相坂の関の杉村はおぶちに見ゆる望月の。出るそなたやあづまぢの。箱根の山の名に聞。やたての杉はいこそすれ。きる事はなきためしにも。引ても此杉を。杣木になとらせたまひそ、
{杣人数カヽル}〽時刻うつりてかなふまじ。いそぎ此木をきらむとて。杣人かず〃立さはげば、
{シテカヽル}〽我はしらずや此木のせいなり。たとひいかなる鎮守がらん興行なり共。天しる地しる人しるに国土、
{上同}和合のかげにてこそ。人も人に有べけれ。此木をきらんやといふより。けしきも立かはり。谷嶺ひゞき震動して。雨風をちこちの。たづきもしらぬ山中に。おぼつかなくも呼子鳥の翅となりあがつて。雲を分て飛でゆく〃、
{ヲカシ}
{ワキカヽル}〽さるにてもふしぎなりつるけしやうのつげ。是と申にわたくしなき所をしらせん為なれば。いよ〃ふつりをあふげとなり。抑》
{色}我山は。桓武の御願所こつしよ久しき勅願所なれば。山神ごおうもやはらぎて。
{上カヽル}《心せよ〃。土も木も。我大君の国なればいづくか鬼の。かげにやどらん
{下同}かげによりこよ人々とて。てうのたづきをの〃に。ちからをそへて。きるとかや、
{上シテ}〽山びこの。よべばこたふる遠近の。たづきもしらぬ。心かな
{上同}山びこの〃。ひゞきはそれかねこしのをと、
{シテ上}〽嶺の松風こゑ〃゛に、
{上地}おめきさけむで此木をきれば。大地もひびき震動してたおれふしたる大木の中より。ばつぼくのせいはあらはれたり、
{下ワキ}〽なまくさまんだばさらだせんだまかろしやな。そばたやうんたらたかんまむ。けんがしんしやほつぼだいしん。もんがみやうしやだんあくしゆぜん。聴我説者。得大智恵。ちがしんしや即身成仏、
{上同}其時ばつぼくいかりをなして。〃則悪魔に身をへんじつゝ。虚空に飛かけり雲霧をふらせば。眼にさへぎりくら闇となれ共明王火焔をはなし給ひ。悪風を吹かけ悪魔をやけば。ばつぼく忽に。たおれふしたる大木に綱をつけゑいや〃と引跡よりも。ほくせい猶も。此木をおしみのりかゝりとりつきひきとむれども。杣木は寺につきのみそら。杣木は寺につきのみそらに。けしやうのすがたはうせにけり》