四百番本「孫思邈」
03-5 孫思邈
{次第｝《日影長閑き四方の春。〃。かすみを分る袂哉》
{詞｝〽是は唐土涇陽の府君一家の者にて候。我此程は私宅に候しが。只今府君の方へ芳信に心ざし候
{道行｝《比も弥生の山桜。〃。花の盛を見渡しの。立出行ばさゞ波や湖水につゞく川ぞひ の。柳はみどりになびきあひ。かぜを見せたる暮つかたけいやうのふにもつきにけり》
{白龍｝〽いかに誰かある
{小龍｝〽誰にて御入候ぞ
{白｝〽それがしが参たる由申候へ
{小｝〽いかに申候はくりうの御参りにて候
{シテ｝〽此方へと申候へ
{小｝〽こなたへ参り候へ
{シテ｝〽此程はゆかしくおもひつるに。うれしくも来る物かな。扨も昨日此子けいすいの邊に遊しを。愚人どもの手に渡り痛て身より血を出し。すでにあやうく見えし處に。眞人の孫思邈といへる人ふしぎに行あひ。あはれびをなしこひとり。衣裳に贖て其後薬をあたへ草中にはなち給ふゆへ。命をたすかり帰りて候。此尊情申のべたく候間。孫思邈を尋いざなひ来り候へ
{白龍｝〽是はきどくなる事を御申候ものかな。さあらばやがて尋申さうずるにて候。やう〃急候程に是ははや。けいすいのほとりとおぼえて候。彼孫思邈のありかをしらず候程に。此あたりにしばしやすらはゞやと存候
{ワキサシ｝〽《壺中の天地は乾坤の外。夢裡の身名は旦暮の間
{一セイ｝日月星辰の移をもしらず。不老不死の我身なり。》
{詞｝山中の気色岩洞に満といへども。人煙を見ず空しく花を。見るのまゝ。楽を招き栄をたのしむ世に出て。須臾の遊興をせばやと存候
{白｝〽是は承及たる眞人の孫思邈にて御入候か
{ワキ｝〽ふしぎやないづくともなく来りつゝ。我名をさしてよび給ふは。いかなる人にてましますぞ
{白｝〽御不審尤にて候去ながら。先々御出候はゞ御不審はらし申べし
{ワキ｝〽実々是も理也。本より我は慈悲の身。世濁に月日を送るなれば。《さらば伴ひ申さんと
{上哥同｝ゆけば山々雲晴て。〃。霞のひまの花盛。花より花を詠こし野べの草々あをやかに。下萌出る道の末。跡はる〃゛と行程に。けいすいの北のかた水府にはやく着にけり〃》
{ワキ｝〽我此城郭にきて見れば。門庭煥赫にかゝやき金殿らうかく棟をならべ。人物尤さかむなり。《誠王者のきよのごとし。有がたかりける。気色かな》
{白｝〽いかに申候孫思邈御供申て候
{シテ｝〽此方へと申候へ
{白｝〽さあらば此方へ御入候へ
{ワキ｝〽心得て候。只今の御迎は何のためにて候ぞ
{シテ｝〽さん候昨日の御礼申上度故御迎をまいらせて候
{ワキ｝〽是は心得がたきいひ事哉。そも何事にてあるらん
{シテ｝〽昨日此子涇水近き野邊に出て。ゆげに時をうつしければ。愚人の手におちて。いためて身より血をいだし。命すでにあやうかりしを。御はからひとして命をすくはせたまふ事。生前死後の悦身にあまり候えば。是まで請じ奉り。《ほうしやのまことをつくさんと。おもふ斗の心なり
{ワキ｝〽実今思ひ出したり。かゝる奇特に逢事も
{シテ｝〽たゞ是慈悲の深き故と
{ワキ｝〽思ふばかりの
{シテ｝〽心なり
{上同｝実ありがたき御誓ひ。〃。かしこき君のしるしとて。波風までもおさまりて。末世に残すきどく哉〃》
{ワキ｝〽さあらば御身のせんぞをくはしくかたり給ふべし
{シテ｝〽語て聞せ申候はん
{同｝《夫とくしやか龍王やあなばだつたまなしうはつら龍王のしそんとして。しやかつら龍王の末孫。此龍宮に傅へきて我も。一家のもんよう也
{シテ｝〽然ればしゆみの四州四大海に充満して
{同｝そのまつゑひあまりあれば。涇陽の水国には。水府を立てうつしをかる。その数ごうしや限なし
{シテ｝〽我等一所の主として
{同｝此若失ふ物ならば。いかばかり恨の種。ほうじがたきはこの芳恩なり
{下クセ｝さる程に一代教主の如来もあらゝ仙人につかへては水を汲薪を取。御身をやつし給ふ故佛とならせ給ひしが大乗のけごんをとき給へどもばにの。とうふうとなししかば。又小乗に下りて。鹿野園にさうざしき。説法の有難さにしやうもんゑんがく菩薩達さとりの眼ひらくれば。大乗に立かへり法花大会に成つゝ。かたじけなくも龍女は。成仏得脱の縁に入。南方むく世界にて法を説にし功徳も
{上シテ｝〽是あらゝ仙人の。はじめをしへし事なきなれ
{同｝いつの世の仙人も心ひとつの慈悲にして仙人佛の隔なし。有難し稀人の我等をたすけ給へるも。慈悲万行の仏にて。一切衆生皆是吾子と説法に一点たがはざりけり》
{ワキ詞｝〽実や委敷物語。かくて時刻もすぎのかど。いとま申て立出る
{シテ｝〽しばらく待せ給ふべし。迚も我名をゆふぐれの。月のさかづきめぐらして。彼稀人にすゝむれば
{ワキ｝〽いかにや府君。一曲を奏して我に見せ給へ
{シテ｝〽実此上はともかくも。《仰にしたがふ舞の袖
{地｝〽返す〃゛も舞とかや
{シテ｝〽日も入逢の鐘の聲。
{同｝〃。しばしはとゞまり給ふべし。誠の姿を顕はして。かさねてきみにまみえむと。いふかと見れば其すがた。かきけすやうにうせにけり〃
{シテ｝〽抑是は水府にとしを経。大龍王とは我事なり。》
{詞｝扨も孫思邈といつし仙人我子をたすけ給ひし芳恩の為寶を《持参申也
{同｝孫思は是を見るよりも。〃。かゝるきどくにあふ事よと
。かんるい肝に。めいじければ。大龍王は。龍女小龍引つれ〃彼御寶を孫思にあたへ奉る
{シテ上｝〽本より孫思は仙人なれば。
{同｝〃。寶をうけじとぢたいしたまへば。彼三十首の薬の一巻取出し。孫思にあたへたてまつれば
{下ワキ｝〽孫思は喜悦の色をなし。〃。則ひらきこと〃゛く拝見し
{上｝口傅を残さず傅へ給へば。末世の衆生に残し申さんと。龍王を拝し帰りければ。しばしはまたせ給ふべし。いかにやいかに龍神。とく〃御舟を出すべし
{上同｝龍神をの〃あらはれて。〃。御舟を守護しかのまれ人をかつがうせり
{下シテ｝〽いまは御舟にめさるべし
{同｝〃と。いふよりはやく。龍神こと〃゛く。舩の縄手を手にくりからまきゑいやゑい。ゑいさらゑいとなみたいらかに。萬歳のきしに引着て。龍女は浪間にいらせ給へば。大龍小龍波をけたて。雲をうがち。さかまくうしほにたちまぎれ〃て龍宮にとんでぞ入にける》