元和卯月本「山姥」
1-08 山姥
{次第}〽《善光ぞと|かげ頼む〃仏の御寺尋ねむ》
{ワキ詞}〽是は都|かたに住居仕る者にて候。又|是に|わたり候御事は。|ひやくま山|うばとてかくれなき遊女にて御座候。か様に御名を申いはれは。山姥の山|めぐりするといふ事を。曲舞につくり御うたひあるにより。京童部の申ならはして候。|又善光寺へまいりたき|よし承候ほどに。|それがし御供申。只今信濃国へと急候
{サシ}《都を出て|さヽ波や。志賀の|うら船こがれ行。末は|あらちの山越て。袖に露|ちる玉江の|はし。かけて|すゑある越路の旅。思ひやるこそ|はるかなれ
{上歌}|こずゑ浪立|しほこしの。〃。|あたかの松の夕|けぶり。きえぬ|うき身の|つみを|きる|みだの|つるぎの|となみ山。雲路うながす三越路の。国の末なる里|とへば。いとヽ都は遠ざかる。|さかひ川にも着にけり〃》
{ワキ詞}〽御急候ほどに越後越中の境河に御着にて候。|しばらく是に御座候て。猶〃道の様体を|御尋あらふずるにて候
{シカ〃}
{百万詞}〽実や常に承る。西方の浄土は十萬億土とかや。|是は|又弥陀来迎の直路なれば。あげろの山とやらんに|まいり候べし。
{下}《とても修行の旅なれば。乗物をば|是に|留め|をき。|かちはだしにて|まいり候べし。道しるべして|たび候へ》
{ワキ詞}〽あら|ふしぎや暮まじき日にて候が俄に暮て候よ。|扨何と仕候べき。
{シテカヽル}〽《なふ〃旅人御|やどまいらせふなふ。》
{詞}是はあげろの山とて人|さと遠き所なり。日の暮て候へば。わらはが庵にて一夜を明させ給ひ候へ。
{ワキ}〽あらうれしや候|にはかに日の暮前後を|はうじて候。やがて|まいらふずるにて候。
{シテカヽル}〽《|こよひの御|やど|まいらする事。|取分思ふ子細あり。》
{詞}山うばの|うたの|ひとふしうたひて|きかさせ給へ。年月の望みなり|ひなの思ひ|でと思ふべし。《其|為にこそ日を|くらし。御宿をも|まいらせて候へ。いか様にも|うたはせ給ひ候へ》
{ワキ詞}〽是は思ひもよらぬ事を承候|物かな。扨誰と見申されて。山|うばの|うたの|一|ふしとは御所望候ぞ
{シテ詞}〽いや何をか|つヽみ給ふ覧。あれにまします御事は。|ひやくま山姥とてかくれなき遊女にてはましまさずや。先此哥の次第とやらむに。《よし足曳の山うばが。山めぐりすると作られたり。あら面白や候。》
{詞}是は曲舞に|よりての異名。さて誠の山|うばをば如何|成者とかしろし召れて候ぞ
{ワキ}〽山|うばとは山に|すむ鬼女とこそ曲舞にも|みえて候へ
{シテ}〽鬼女とは|をんなの|おにとや。よし|おに成とも人|成共。山に|すむ女ならば。わらはが身の上にてはさぶらはずや。
{カヽル}《年|ころ色にはいださせ給ふ。|ことの葉草の露ほども。御心には懸給はぬ。》
{詞}恨申に来りたり。
{下カヽル}《道を|きはめ名を|たてヽ。世情萬徳の妙花を開く事。此一曲の故ならずや。|しからば|わらはが身をも|とぶらひ。舞歌音楽の妙音の。声仏事をもなし給はヽ。などか|わらはも輪廻をのがれ。帰性の善所に|いたらざらんと。恨をいふ山の鳥獣も鳴そへて。聲をあげろの山姥が霊鬼|是まで来りたり
{百万上}〽|ふしぎの事を聞|物かな。扨は誠の山|うばの。是迄来り給へるか》
{シテ詞}〽我国〃の山めぐり。|けふしも爰に来る事は我名の|とくを|きかむ|ためなり。|うたひ給ひて|去とては。我妄執を|はらし給へ
{百カヽル}〽《此上はとかく|じしなば|おそろしや。|若身の|ためや|あしかりなんと。|はばかりながら時の|てうしを。|とるや拍子をすヽむれば》
{シテ詞}〽しばさせ給へとてもさらば。暮るを待て月の夜声に。|うたひ給はヽ我も又。誠の姿を|あらはすべし。
{カヽル}《すはやかげろふ夕月の
{上歌}さなきだに暮るを急ぐ|み山べの。
{同}〃。雲に心をかけ|そへて。|此山姥がひと|ふしを夜すがら|うたひ給はヽ。その時我|すがたをも。あらはし衣の袖つぎて。|うつり舞を|まふべしと。いふかと|みれば其まヽ|かき|けすやうに失にけり〃
{百万上}〽《餘の事のふしぎさに。さらに|まことヽ|おもほえぬ。鬼女が|こと葉をたがへじと
{上歌}松風|共に吹笛の。〃。聲すみわたる谷河に。手まづさへぎる曲水の。月に|こゑすむ深山かな〃
{下シテ後}〽あら物|すごの深谷やな。あら物すごの深谷やな。寒林に骨をうつ。霊鬼泣々前生の業を|うらむ。深野に花を供ずる天人。かへす〃も幾生の善をよろこぶ。いや。善悪不二。何をか恨み。|なにをか|よろこばんや。》
{詞}萬箇目前の境界。|けむか|へう〃として。《|いはほ峨々たり。山又|やま。いづれの|たくみか|せいかむの|かたちを。|けづりなせる。水また水。誰が家にか|へきたむの色を染|いだせる
{百万カヽル}|おそろしや月も|こぶかき山|かげより。其さま|けしたる|かほばせは。その山|うばにてましますか。》
{シテ詞}〽とてもはや|ほに出|初し言の葉の。|けしきにも|しろし|めさるべし。我にな恐れ給ひそとよ
{百万}〽《此上は|おそろしながらうば玉の。|くらまぎれよりあらはれ出る。姿|ことばは人なれ共
{シテ詞}〽髪にはをどろの雪を|いたヽき
{百万}〽|まなこの光は|ほしの|ごとし
{シテ下}〽扨面ての色は
{百}〽さにぬりの
{シテ}〽軒の|かはらの|おにの|かたちを
{百}〽|こよひ|はじめて|みる事を
{シテ}〽何にたとへん
{百}〽|いにしへの
{上歌同}鬼一口の雨の夜に。〃。|かみなりさはぎおそろしき。其よを。思ひ|しら玉か何ぞと|とひし人までも。我身の|うへに成ぬべき。|うき世がたりも|はづかしや〃》
{シテ詞}〽春の|よの一時を。千金に替じとは。花に清香月に|かげ。是は|ねがひのたまさかに。行逢人の一曲の。其|程もあたら|よに。はや〃|うたひ給ふべし
{百カヽル}〽《実此上はともかくも。いふに及ばぬ山中に》
{シテ詞}〽一聲の山鳥羽をたヽく
{百}〽《鼓は瀧|なみ
{シテ}〽袖は白妙
{百}〽雪をめぐらす|この|はなの
{シテ}〽|なにはの|事か
{百}〽|のりならぬ
{上歌同}よし足曳の山姥が〃山めぐりするぞ苦しき
{シテ}〽其山と|いつば。|ちりひちより|おこつて。|あま雲かヽる|せむてうの|みね。
{同}海は苔の|つゆよりしたたりて。|はとうを|たヽむ。|ばむすいたり
{シテサシ}〽一洞空き谷の|こゑ。梢に響山|ひこの。
{同}無聲音を|きくたよりとなり。声にひヽかぬ|たにもがなと。望しも実かくやらん
{上シテ}〽|ことに我|すむ山家の気色。山|たかふして|うみ|ちかく。谷深ふして水|とをし
{下同}前には海水しやう〃として。月真如の光をかヽげ。後には嶺松|きヽとして|かぜ常楽の夢をやぶる
{下シテ}|けいべむ|かま朽て|ほたる|空く|さる。
{同}|かんこ苔深ふして。鳥|おどりかずとも。云つべし
{クセ}遠近のだづきも|しらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥の。声すごき折〃に。伐木丁々として。山さらに幽なり法性峯そびえては。上求菩提をあらはし無明谷深きよそほひは。下化衆生を表して金輪際に|をよべり。|抑山|うばは。生所も|しらず宿もなし。|唯雲水を|たよりにて|いたらぬ山の|おくもなし
{上シテ}〽然れば人間にあらずとて
{同}隔つる雲の身をかへ。|かりに自性を変化して。一念化生の鬼女となつて。目前に来れ共。邪正一如と見る時は。色即是空其まヽに。仏法あれば。世法あり煩悩あれば菩提あり。佛あれば衆生あり衆生あれば山|うばもあり。柳は|みどり。花は|くれなゐの|いろ〃。扨人間に遊ぶ事。有時は山がつの樵路に通ふ花の|かげ。|やすむ|おもにヽ肩を|かし。月もろ共に山を|いで里|迄|をくるおりもあり。又ある時は織姫の。|いを|はたたつる|まどに入て。枝の。鴬|いとくり|ばうせきの宿に身を置人を|たすくるわざをのみ。|しづの目に|みえぬ鬼とや人のいふ|覧
{上シテ}〽|よを空蝉の|から衣
{同}|はらはぬ袖に|をく霜は夜寒の月に|うづもれ|うちすさむ|ひとの|たえまにも。千聲萬聲の砧に|こゑのしで|うつは唯山|うばがわざなれや。都に帰りてよ|がたりにせさせ給へと。思ふは|猶も妄執か。唯うち|すてよ何事もよし|足曳の山姥が山めぐりするぞ|くるしき。
{シテ上}〽足曳の
{地}〽山めぐり
{下シテ}〽一樹の陰一河の流。皆|是他生の縁ぞかし。ましてや我名を夕月の。浮世をめぐるひとふしも。狂言綺語の道すぐに。讃仏乗の因ぞかし。あら。御名残おしやいとま申て帰る山の
{上地}〽春は|こずゑに咲かと待し
{シテ}〽花を尋て山めぐり
{地}〽秋はさやけき|かげを|たづねて
{シテ}〽月|みる|かたにと山めぐり
{地}〽冬はさえ行時雨の雲の
{シテ}〽雪をさそひて山めぐり
{同}めぐりめぐりて輪廻を|はなれぬ妄執の雲の塵つもつて山姥となれる。鬼女が有様|見るや〃と峯にかけり。谷に響て今|まで爰に。有よと見えしが山又山に。|やまめぐり|やま|また山に山めぐりして|ゆくゑも|しらず成にけり》