明暦野田本「きぬた」

2-68 きぬた

{ワキ詞}〽是は九州芦屋の何某にて候。我しその事あるにより在京仕候。假初の在京と存候つれとも。當年三とせに成候。餘りに舊郷の事こゝろもとなく候ほとに。召つかひ候夕霧と申女を下さはやと思ひ候。いかに夕霧。あまりに古里心もとなく候ほとにおことを下し候へし。此年の暮にはかならすくたるへきよし申候へ
{一ウキリ}〽さらは軈て下り候へし。必ことしの暮には御下りあらふするにて候　
{上哥}《此ほとの旅の衣の日も添て。〃。いく夕暮の宿ならん。夢も数そふかり枕。あかしくらして程もなくあしやの里に付にけり。〃。》
{詞}いかに誰か御入候。都より夕霧か参りたると御申候へ　
{シテサシ}《〽夫鴛鴦の衾のしたには。立さる思ひを悲み。ひほくの枕の上には。浪を隔つるうれゐあり。ましてやうとき妹背の中。おなし世をたに忍ふ草。我は忘ぬねをなきて。袖に餘れる涙の雨の。晴間稀なる心かな》　
{ユウ詞}〽夕霧かまいりたるとそれ〃御申候へ　
{シテ詞}〽何夕霧と申か。人迄もあるまし此方へ来り候へ。いかに夕霧めつらしなからうらめしや。人社かはり果給ふ共。風のゆくゑの便りにも。なとや音信なかりける　
{ユウ上}《〽さむ候とくにも参りたくは候ひつれとも。御みやつかひの隙もなくて。心より外に三年迄。都にこそは候ひしか　
{シテ上}〽何都すまゐを心のほかとや。思ひやれ実は都の花盛。なくさみおほき折々にたに。うきはこゝろのならひそかし　
{下詞}〽鄙の住居に秋の暮。人目も草も枯々の。契りも絶はてぬ何を頼まむ身のゆくゑ。　
{上哥}三年の秋の夢ならは。〃。うきもそのまゝさめもせて。
{クル}思ひては身に残りむかしはかはり跡もなし。実やいつはりの。なき世なりせはいかはかり。人のことの葉うれしからん。愚の心やなをろか成けるたのみかな》　
{シテ詞}〽荒ふしきや。何や覧あなたに當つて物音の聞え候。あれは何にて有そ　
{ユウ詞}〽あれは里人の碪うつ音にて候　
{シテ}〽けにやわか身のうきまゝに。古ことの思ひ出られて候ふそや。もろこしに蘇武といへし者。胡國とやらんに捨てをかれしに。ふる里にとゝめ置し妻や子の。夜寒の寐覚を思ひやり。高樓に上つて碪をうつ。志のすゑ通りけるか。萬里の外成蘇武か旅寝に。故郷の碪聞けり。
{下}《わらはも思ひや慰むと。迚さひしきくれはとり。あやの衣を碪にうちて。心をなくさまはやと思ひ候》　
{ユウ詞}〽いや碪なとは賎しき者のわさにてこそ候へ。去なから御心慰めむためにて候はゝ。碪をこしらへて参らせ候へし
{シテ上カゝル}《〽いさ〃碪うたむとて。なれてふすまの床の上　
{ユウ上}〽なみた片しくさむしろに
{シテ}〽思ひをのふる便りそと　
{ユウ}〽ゆふ霧たちより主従ともに　
{シテ}〽うらみの碪うつとかや　
{次第詞}衣に落る松の声。ころもにおつる松のこゑ夜寒を風やしらす覧
{シテ上}〽音信の。まれなる中の秋風に
{上地}〽うきをしらする。ゆふへかな　
{シテ}〽遠里人もなかむらん　
{上地}〽たかよと月は。よもとはし
{打上}
{シテサシ}〽面しろの折からや。比しもあきのゆふつかた。
{二人}をしかの声も心すこく。見ぬ山風を送りきて。木末はいつれ一葉ちる。そら冷しき月影の軒の忍ふにうつろひて。
{シテ}露の玉たれかゝる身の。
{二人}思ひをのふる。よすからかな。
{上ツレ}きうろう高くたつて。
{二人}風北にめくり　
{シテ下}〽りむてんゆるくきうにして。月西に流る　
{下詞}蘇武か旅寐は北の國。是は東の空なれは。西より来る秋の風の。吹きをくれとまとをの衣うたふよ
{上}〽舊郷の軒端の松も心せよ。
{詞}をのかえた〃に。嵐のをとを残すなよ。今の碪の聲そへて君かそなたにふけやかせ。餘りに吹て松風よ。わか心通ひて人にみゆならは。その夢を破るなやふれて後は此ころもたれか来てもとふへき。きてとふならはいつ迄も。衣はたちもかへなむ。夏衣うすき契りはいまはしや。君か命はなかき夜の。月には迚もねられぬにいさ〃衣うたふよ。彼織女の契には。ひと夜はかりのかりころも。天の河なみ立へたて。あふせ甲斐なき浮舟の。梶の葉もろき露なみた。ふたつの袖やしをるらん。水かけくさならは。浪うちよせようたかた　
{上シテ}〽文月七日のあかつきや。
{詞}八月九月。実まさに長き夜。
{クル}千声万聲のうきを人にしらせはや。月の色風のけしき。影にをく霜迄も心すこき折節に。碪のをと夜あらし悲しみの声虫の音ましりておつる露涙。ほろ〃はらはらと。いつれ碪の音やらん》　
{ユウ詞}〽いかに申候。殿は此秋も御下り有間敷にて候
{シテ詞}〽何と申そ。殿は此秋も御下りあるましきと申候か　
{ユウ}さん候左様に申候
{シテ下}《〽うらめしや責ては年の暮を社。偽りなから待つるに。扨ははや誠にかはり果給ふそや　
{下詞}思はしとおもふ心もよはるかな。
{上}声も枯野のむしの音の。乱るゝ草の花こゝろ。風狂したる心ちして。やまふの床に伏しつみ。つゐに空しく成にけり〃》　
{ワキ詞}〽むさんやなさしも契りし妻ことの。引わかれにしそのまゝにて。つゐのわかれと成けるそや
{上哥}《さきたゝぬ。悔の八千度もゝよ草の。〃の。陰よりも二度。帰りくる道と聞からに。梓の弓のうらはすに言葉をかはす。あはれさよ〃　
{後シテ下}〽三瀬川しつみ果にし。うたかたの。哀はかなき身の行衛かな。
{上}ひやうはい花の光りをならへ。娑婆の春をあらはし。あとのしるへの灯は。真如の秋の。月をみする。去なから我は邪婬の業ふかき。思ひのけふりの立居たに。安からさりし報の罪の。乱るゝ心のいとせめて。こくそつあはうらせつの。標の数の隙もなく。うてやうてやとむくひの碪。うらめしかりける。
{カゝル}因果の妄執　
{地}因果のまうしうの思ひのなむた。碪にかゝれは。泪はかへつて。火焔と成て。胸の煙のほのほにむせへは。さけへと聲か出はこそ。
{クル}碪もをとなく。松風も聞えす。呵責の声のみ。おそろしや
{打切}
{上哥}羊のあゆみ隙の駒。〃。うつりゆくなるむつの道。因果の小車の火宅の門を出されは。めくり廻れ共生死の海は離るましやあちきなのうき世や　
{シテ下}〽うらみは葛の葉の。
{詞}〃。帰りかねて執心の面影の。はつかしや思ひ妻の。ふた世と契りてもなを。末の松山千代迄と。かけし頼みはあた波の。あらよしなやそらことやそもかゝる人のこゝろか　
{上}烏鳥とふをそとりの心して。うつし人とは誰かいふ。草木も時を知り鳥獣も心ありや。けにまことたとへつる。蘇武か旅鴈に文をつけ。萬里の南國に至りしも。契りの深き志し。浅からさりし故そかし。君如何なれは旅枕夜寒のころもうつゝとも夢ともせめてなと思ひ知らすやうらめしや　
{下キリ}法華讀誦の力にて。〃。幽霊まさに成仏の。道あきらかに成にけり。是も思へは假初に。うちし碪の声のうち。ひらくる法の花こゝろ。菩提の種と成にけり〃》