明暦野田本「張良」

4-188 張良

{ワキ詞}〽︎是は漢高祖の臣下張良とは我事也。われ公程に隙なき身なれとも。或夜不思議の夢を見る。是より下邳と云所に土橋あり。彼土橋に何となく休らふ處に。一人の老翁馬上にて行逢。彼者左の沓をおとし。某に取てはかせよと云。何者なれは我にむかひて。かくいふらんとは思ひつれとも。かれかけしき只者ならす。其上老たるを貴ひ親と思ひ。沓を取てはかせて候。其時彼者の申様。汝誠の志あり。けふより五日に當らん日こ〃に来れ。兵法の大事を傳ふへき由申て夢さめぬ。やう〃日を考へ候へは。今日五日に相當り候程に。唯今彼所に急候
{上哥}《五更の天も明ゆけは。〃。時やをそきと行程に。道ははるかに山のはもしらみ渡れる川波や。下邳の圮橋に着きにけり〃
{シテ上}〽︎荒おそなはりや如何に張良。年老たる者と契り置し。其ことの葉も早違ひぬ》
{詞}我は先刻より爰に来り。暁鐘を数へ待つるに。
{上カ〃ル}《はやその時刻も杉のかと
{上哥詞}まつかひもなしはや帰れ。〃。汝誠の心さし。あらば今日より五日に。當らんその日夜ふかく。来らは我も又こ〃に。
{下}かならす出合約束のことく傳へん。をくれたまふな張良と。いかりをなして老翁は。書けすやうに失せにけり〃》　
{ワキ詞}〽︎言語道断以外の機嫌にて候は如何に。又我なからかくのことく。行衛もしらぬ御事に。か様に恐随ふ事。其故なきに似たれ共。大事を傳へて末世に残し。
{上カ〃ル}《兵法の師といはれんと
{上詞}思ふこ〃ろを見む為と。〃。しれは帰るもうらみなし。
{クル}又こそこ〃に来らめと。勇みを
{下}なして帰りけり〃　
{ワキ一セイ}〽︎瑶臺霜満り。一聲の玄靏空になく。巴峡秋ふかし。五夜の哀猿月にさけふ。物冷しき。
{クル]山路かな
{打上}
{上詞}有明の月も隈なき深更に。〃。山のかひより見渡せは。所は下邳の川波に。渡せる橋にをく霜の白きをみれは今朝はまた。渡りし人の跡もなし。
{下}うれしや今ははや。思ふ願ひもみつ塩の。暁かけて遥に。夜馬に鞭うつ人影の。駒をはやむる気色あり　
{後シテ上}抑是は黄石公といふ。老人なり。》
{詞}爰に漢高祖の臣下張良と云者。た〃公程を見て君臣をおもんし。義を全ふして心たけく。
{上カ〃ル}《賢才人にこえ。器量勝れ
{上地}〽︎國を治め民を憐ふ心さし　
{シテ上}〽︎天道に通して忽に　
{上地}〽︎諸仏も感應まのあたり
{シテ上}〽︎大事を傳へて高祖につかへ　
{上地}〽︎かたきを平らけ味方をいさめ。
{クル}天下を治めんはかりこと。汝に傳へんと。駒をはやめて来り給ふを張良はるかに。見奉れは。有しに替れる石公の粧ひ。眼の光りも邊りをはらひ姿もか〃やく威勢に恐れて。橋本に畏り。待居たり》
{打上}
{シテ詞}〽︎如何に張良。いしくもはやく来る物かな。近付たまへものいはむ　
{ワキ詞}〽︎其時張良立あかり。衣冠正しく引つくろひ。
{上カ〃ル}《土橋を遥に上りゆけは
{シテ下}〽︎天晴》
{詞}器量の人躰かなと。思ひなからも今一度。
{上カ〃ル}《心を見むと石公は　
{上詞}〽︎はいたる沓を馬上より。〃。はるかの川に。おとし給へは張良つ〃いて飛ており。流る〃沓を。とらむとすれとも所は下邳の。巌石いはほに足もたまらすはやき瀬の。矢を射ることくに落くる水の。
{クル}うきぬしつみぬ流る〃沓をとるへきやうこそなかりけれ　
{上詞}不思議や川浪立帰り。
{ハヤフエ}
{打上}〃。俄に河霧たちくらかつて。浪間に出る虵躰のきほひ。くれなゐの舌ふりたて〃。張良を目かけてか〃りけるか流る〃沓をおつ取上て。面もふらすか〃りけり。
{ハタラキ}
{打上}
{ワキ下}〽︎張良さはかすつるき抜もち
{詞}〃虵躰にか〃れは。大虵はつるきの光りに恐れ。持たる沓を指出せは。沓を追取剣を納め。又川岸に。えいやとあかり。偖彼沓を取出し。石公にはかせ奉れは
{シテ下}〽︎石公馬より静におりたち
{下詞}〃。去にてもなんち。善哉〃と彼一巻を取出し。張良にあたへ給ひしかは。則披き。こと〃く拝見し秘曲口傳を残さすつたへ。また彼大虵は観音の再誕なんちか心を見んためなれは。今より後は。守護神と成へしと大虵は雲居に攀上れは。石公遥の高山にあかり。金色の光りを虚空にはなし。
{クル}たちまち姿を黄石と。
{下}あらはしのこし給ふそ有難き》